東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 8月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

<つなぐ 戦後74年>友よ 原爆前日 いつもの別れ

原爆写真パネル展が開催中の三鷹市役所で当時の様子を話す大岩孝平さん

写真
写真

 旧制中学一年の十三歳のときに広島市内で被爆した東京都三鷹市の大岩孝平さん(87)は、ホタルが飛び交う光景に「あの夏」を重ねずにはいられない。

 夏になるとホタルが飛び交う広島の実家の池。一九四五年八月五日も、近所の道路でいつものように親友のしげちゃんや村田君と遊んでいた。けんかをして「おまえとはもう二度と遊ばないからな」と別れたのも普段通り。次の日もケロッとした顔で「遊ぼう」と声を掛け合うはずだった。

 翌六日朝、おなかが痛くなり、大岩さんは学校を休んだ。家の縁側沿いの八畳間で夏掛け布団をかぶり、横になっていた。

 突然、ピカッと強烈な閃光(せんこう)が目に飛び込んだ。「痛いっ」。爆風で身体が浮き、とっさに身を覆った夏掛け布団にはガラスの破片が無数に刺さっていた。

 外に出ると、自宅だけでなく、周りの家も全て壊れていた。近くの比治山(標高約七〇メートル)の向こうから、手を前に伸ばした異様な人間の群れが列をつくって押し寄せていた。衣服が焼けてボロボロで身体からは焼けただれた皮膚がだらーっとぶら下がっている。中には飛び出た眼球を手で押さえている人もいた。地獄絵図を見ているようだった。兵隊に頼まれ、道端の遺体を動かそうと脚をつかむとやけどで皮膚が剥がれ落ち、気付くと骨をつかんでいた。

 自宅は爆心地から約二キロだったが、比治山が火の手を防いでくれた。同じ中学では爆心地から数百メートルで建物疎開の作業をしていた生徒など一年生だけで約三百人が死亡。別の中学に通っていた親友のしげちゃんと村田君も亡くなった。数カ月後、お悔やみに行くと、村田君の母親は大岩さんをみるなり脚に抱き付き、二人でわんわんと泣いた。

 「何もできず、なぜ、自分だけが生き延びたのか」今も自責の念に襲われる。

 被爆者団体の活動に携わり、東京都原爆被害者協議会会長も今年六月まで六年ほど務めた。あの日から七十四年。唯一の被爆国・日本は核兵器禁止条約に署名していない。天国の親友たちに「世界は平和に向かっているよ」といつになれば報告できるのか。

 もう二度と会えない二人。「せめてホタルになってでもいいから出てきてくれないか」。そんな願いを俳句に込めた。 (望月衣塑子)

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】