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【社会】

<つなぐ 戦後74年>映画作家・大林宣彦監督インタビュー 僕の映画は、敗戦少年の記憶

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 戦後七十四年の終戦の日の特集は、映画作家の大林宣彦さん(81)のインタビューです。三年前に末期の肺がんで余命半年の宣告を受けながら、戦争と平和をテーマにした新作を撮り続けています。「いつも遺作だと思っている」と大林さん。「ここまで来ると、『もうがんなんかじゃ殺されないぞ』という気概が、この身近な切迫感の中で起きてくる」と言います。 (聞き手=社会部長・杉谷剛)

■病を得て

 -新作の『LABYRINTH OF CINEMA=海辺の映画館 キネマの玉手箱』は原爆投下直前の広島が舞台です。監督の少年時代の記憶につながっているのですか。

 九人全員が原爆で亡くなった「桜隊」という移動演劇集団を軸にした映画なので、はっきり広島と向き合うべき時がきたと思った。七月に広島で講演したときも「僕は原爆の里生まれなんだ」と改めて強く感じた。

 今更ながら、僕は映画でずっと同じことをやってきたなと。全部後ろに戦争の影がある。『時をかける少女』はとても愛された映画だけど、僕の中で主役の彼女は、戦争で死んでしまった僕のよく知る少女。当時口にはしなかったけど、その子が敗戦後によみがえり、そこで時を超えても会えない悲恋を巡る、という演出の物語。現場では知世ちゃん(主演の原田知世さん)に「昔、戦争というものがあってね。君みたいな少女が随分殺されたんだよ」と話してました。

 僕の作品は全部自伝ですよ。僕は自分に切実な主題でしか撮らない。だから結局、僕自身の人生の映画日記になっちゃった。

 -『この空の花-長岡花火物語』から、戦争が前面に出た三部作を撮り始めましたね。

 これはね、東日本大震災。それまでは僕たちが何を言ってもむなしいと思っていた。マッカーサー主導の占領軍の意思で戦争が無かったかのように教育されていた。檀一雄さん原作の『花筐(はながたみ)』は四十年ほど前に脚本にしていて、ぜひ映画にしたいと思っていたが、誰も見向きもしなかった。

 震災で、今なら日本人に伝わる時期だなと考えて、はっきり戦争体験をエッセーの形で映画にしようと。それが共感を得たのは僕の手柄じゃなく、時代がより切羽詰まってきたから。原発事故を体験して「隣のまちでも起き得るぞ」というような。

 -三部作の最後『花筐/HANAGATAMI』の撮影開始直前に、ステージ4の肺がんで余命半年の宣告を受けましたね。

 なぜかほっとした。悲観的な感情は全く抱かなかった。「がんなんかじゃ殺されないぞ」「生きられるだけ生きて、映画を撮れるだけ撮ろう」と。そんな気概が、この切迫感の中で僕自身にも起きてきている。

 -作品で表現したかったことは。

 すぐに赤紙(召集令状)が来て、戦争に連れていかれて殺されることを覚悟して生きている青年たち。「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」というせりふは、『花筐』の現場で考えた。原作にはない。映画のテーマだから、直接的に言葉にするのはどうなんだとも考えたが、これを言えるのは、あの時代を知っている僕たち老人世代しかいない。遺作になるかもしれないと思って撮った。

■軍医の息子

 -お父さんは軍医でしたね。

 父は私が一歳のときに従軍しているんですよ。数年前、父がワープロで書いた自分史が見つかった。そこに「宣彦よ。お父さんは自ら戦争にいきました」とあり、一瞬仰天した。「おやじ、自分で戦争行ったの?」「戦争好きだったの?」と。

 読み進むと、「普通に赤紙もらって行くと、私の青春は敵の弾の標的になるだけだ。そんなことで殺されたんじゃ、目指した医学の道を完遂できない。だから自ら志願して軍医として行く。そうしたら味方の命を救えるかもしれないし、ひょっとすると敵の命すら救えるかもしれない。それが医学を目指す人間の責務だ」と。そんなつらい選択肢の中で生きてきたのか、今ではとても軽々しく想像さえできない空気の中で過ごしてきたのかと思った。

 -どんなお父さんでしたか。

 当時の父は広島に赴任していて、母と二人で慰問したことがあります。軍医少尉だった父から三歩下がって従う母に、幼い僕は手をつながれて。通り掛かった兵隊が父に敬礼をする。立派だなと思っていたら、今度は僕の自慢の父さんが急に普通の兵隊みたいにしゃちほこばって上司に敬礼する。それを見て「組織は嫌なものだな」と。普通の人を普通でなくしてしまう。今から考えれば、それが戦争嫌いの最初だった。

 -いつごろですか。

 原爆が落ちる二週間ほど前。被爆後に原爆ドームになった産業奨励館前の石段で、川を眺めながら三人でサツマイモを食べた記憶もある。そのころ親しくなった憧れの少女や同年代の親戚がいましたが、原爆で何も言わず誰もいなくなりました。

 -八月十五日の記憶は。

 小川で水遊びしていたら、おばあちゃんが「これから天皇陛下さまのラジオ放送があるけえ、帰ってきなしゃー」と言われ。水浸しのまま聞きました。ずぶぬれの女友達のシュミーズ姿だけが記憶に残っている。つまり、戦争中も僕ら個人の日常はちゃんとあったってことですよ。

■だます大人

 -終戦時は七歳でした。

 母の実家で大家族で暮らしていたんですが、敗戦後間もないある日、突然、母が「きょうは母ちゃんとお風呂に入ろうか」と言い出しました。男尊女卑の時代で、いつもはお風呂も男が先、女が後から入っていたが、その日は違った。出ると母の長い髪がばっさり切られていて、父が残していった国民服みたいなものを着て、「きょうは母ちゃんと寝間(ベッドルーム)へ行こう」と。行ったら座布団が並んで置いてあって目の前に短刀が置いてある。「母ちゃんはきっと僕を、痛くなく優しく殺してくれるんだなあ」と思った。

 安心したのか、寝てしまいましてね。ふと気づくと、ニワトリが鳴いて、雨戸から漏れる外の光がカラーになって白い壁に映っている。「ああ、僕はまだ生きてる」と。

 -お母さんは、一度は息子を手にかけようと思ったわけですね。

 ご婦人は乱暴され、子どもは撲殺されるといううわさが流れ、その方がこの子のためになると思ったのでしょう。父は慰問直後に広島から九州の小倉に異動していました。

 敗戦まではお国のために死ぬのが一番勇ましく正しい男の子の姿だと考える「軍国少年」でした。実際には毎日、知っている人が一日に何人も戦死したよ、という情報が入ってくるんですよ。それでこの人たちは僕が覚えている限り存在していて、忘れるといなくなるように思えた。だからこの人たちを死なせないためには決して忘れないというのが、子どものころの自分との約束。そうすると亡くなった人の生前の日常の姿が無人の廊下に浮かんで見えたりする。そういう想像力はあったわけです。それが僕の映画の原点ね。

 -そんな子どもの時から映画をつくったそうですね。

 尾道の家の蔵の中に、35ミリフィルムのおもちゃの映写機がありましてね。『のらくろ』や『冒険ダン吉』のフィルムの切り貼りをしながら、映画の編集を覚えてしまった。フィルムの絵が消えてしまったら、うちのおじいちゃんをモデルにした『マヌケ先生』の絵を描きました。

 -戦後日本は急激に変化します。

 敗戦後の一番のショックは日本人の大人にだまされたこと。それまでは「仮に大日本帝国が滅びたら、おじさんがさっと殺してやるから安心しろ」と言われていたのに、誰も殺してくれない。闇米担いで「平和じゃ、平和じゃ」とスキップ踏んでる。「何だこの裏切り者は。こんな大人に付いていったらこれからの自分は生きるも死ぬもぐちゃぐちゃになる」と思った。僕らは戦中派でもないし、戦後派にもなれない、そんな「敗戦少年世代」なんです。

■じゃんけん

 -今は改憲の動きがあります。

 特定秘密保護法ができた日、僕は一日中、怖くて震えていました。戦争中の憲兵のことが鮮明に頭にあるので。わが家の大広間に、警察署長やあらゆる町の名士が集まって、裸になればみな同じ、と、ふんどし一本になって天下国家を語っていた。それがいつの間にか、そんな威風堂々とした人たちがみんな背中をこごめて、悪いことをしているかのように「あっちで負けた。こっちで負けた」とひそひそ話をしている。

 同居していた肺結核のおじさんの同級生に、僕のその年若いおじさんの肩や背中をさすってくれる優しい幼なじみの友人がいた。ところが、おじさんが何かの嫌疑でつかまると、その同級生が軍服を着てきて、一週間後に赤あざ青あざだらけで帰ってきたおじさんを監視するんです。「軍服を着る、着ないでこんなにも変わるのか。人間ってのは怖いもんだな」と思った。戦争はすべての人間を変えるんですね。

 -この国は今、どこに向かっているのでしょう。

 よもやこの国が、あんな愚かな戦争をもういっぺんやるわけがないと思い込んでいた。意識的にノンポリを装っていた。僕たちはあまりにもうかつだった。アメリカさんも、あの時代を知らない人が大統領になった。誰も知らないから怖い。この怖さ、愚かさだけは未来を生きる若者に伝えなきゃいけない。

 人間は戦争もするし、平和をつくる力もある。一人一人が「あんたはどうするの」と問われている。僕は是非は問わない。是と非の間にある、もう一つのものですよ。じゃんけんぽんのチョキだって、パーとグーだと是と非しかないけど、チョキが入ると勝負がつかず、永遠に勝ち負けなしの平和になる。平和を求める人間の賢さです。

 -かつて黒沢明監督に「映画には必ず世界を救う美しさと力がある」と言われたそうですね。

 ドキュメンタリーが「本当」で、劇映画が「うそ」だとすると、その間に「まこと」があると思う。人間の真実ですね。平和というのはいまだ実現しない大うそだけど、みんなが信じ続ければ「心のまこと」として実現するかもしれない。戦争という現実と平和という虚構を映画で描く。そこに観客の想像力が加わることで、未来の人間の歴史を変えられるかもしれない。でも、あれから三十年。僕も含めてどうして人間は賢くならなかったんでしょうね。

 

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