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<焼け跡の孤児たち>(下) 空襲、途切れた声

家族写真を手に当時を振り返る平光美那子さん=岐阜県各務原市で

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 一九四五年七月九日、まだ九歳だった平光美那子さん(83)=岐阜県各務原市=は、岐阜空襲で家族を失う。

 見渡す限りの家が燃え上がり、真っ赤な火に囲まれた。ごう音とともに、熱風が吹きつける。地面に突っ伏していると、子守歌が途切れ途切れに聞こえてきた。「ねんねん…ころりよ おころりよ 坊やは…よい子だ ねんね…しな」。母の「最期の歌声」だった。

 戦後、結婚して自身が母親となり、三人の子どもを育てたが、どうしてもこの歌だけは歌えなかった。「歌うと当時を思い出し、泣けて、泣けて…」

 自宅は岐阜市の市街地にあった。弟三人、妹一人、五人きょうだいの一番上。市内の鉄工所に勤めていた父を残し、一家は現在の岐阜県安八町の母の実家に疎開。だが、お父さん子だった平光さんが「家へ帰りたい」と繰り返し、また一緒に暮らし始めた直後の夜だった。

 空襲警報が発令され、裏庭の防空壕(ごう)に家族全員で入る。「ザーッ、ザーッ」。雷雨のような音を立てて焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ。逃げ場を失うのを恐れて原っぱに飛び出したが、一帯は火の海だった。「ほどしてー(ほどいてー)」。母が叫んだ。一番下の生後四カ月の峻(たかし)ちゃんを背負っていた綿入れのはんてんに火がついていた。慌てて、ひもをほどくのを手伝う。そこへ駆け寄ってきた近所の人に手をとられ、地面に伏せた。「死ぬのは嫌ーっ」と泣き叫んでいると、あの子守歌が聞こえてきた。

岐阜空襲でがれきと化した岐阜市中心部の柳ケ瀬=「写真集岐阜百年」中日新聞社刊

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 「弟や妹は両親のそばにいたと思う。歌が聞こえたのだから、私もそんなに離れていなかったと思うんやけど…」。わずかな距離が運命を分けた。

 家族六人は「煙に巻かれて亡くなった」と聞いている。その後は、母の実家に引き取られた。中学校を出ると「手に職をつけた方がいい」と祖父に言われた通りに、洋裁学校に進んだ。「夢や希望とかは何もなかった。そういう時代だったんやね」と思い起こす。

 十九歳で見合い結婚。生まれた長男に「しんじ」と名付けた。五歳で亡くなった弟慎志と読みは同じ。「子どもの時、父から勉強を教わっていたが、母が慎志は頭がいいと成長を楽しみにしていた」。七人いる孫の中には、「たかし」もいる。「全くの偶然。(子どもは)私の弟の名前を知らなかった。でも、うれしかった。生まれ変わってきたのかと思った」

 三年前に夫を亡くし、自分に何ができるのかと考えるようになった。今年七月、岐阜空襲の追悼式典で初めて人前で自身の体験を語った。「親や弟妹の分まで生命をもらい、さらに幸せももらった。戦争は一瞬で命を奪う悲惨で残酷なもの。二度と巻き込まれないようにしてほしい」

 (この連載は榊原智康が担当しました)

 <戦争孤児の分類> 1948年の国の調査による孤児の総数12万3511人の内訳は、空襲や戦地での戦闘で親を失った「戦災孤児」が2万8248人、中国や朝鮮半島から帰った「引き揚げ孤児」が1万1351人などとなっている。このほか、当時の調査では分類されていないが、中国などに取り残された「残留孤児」、戦後の混乱期に駐留軍人と日本人女性との間に生まれた「国際孤児」なども戦争孤児に含まれる。

 

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