「パクりやがって!」
7月18日、京都府宇治市にあるアニメ制作会社、京都アニメーションの第1スタジオに41歳の男が乱入。ガソリンを撒き火を付けた。
またたく間に火災は広がり、死者だけでも35人を数える凄惨な事件となってしまった。日本国内のみならず、世界的にも知られたアニメ作品を制作していたスタジオの惨事は世界中に伝えられ、衝撃を与えた。
容疑者の男性は自らも火に巻かれながらも逃げ出し、近隣の住宅に助けを求めたという。その後警官が男を取り囲み問い詰めると、容疑者は「パクりやがって!」と言ったという報道がされた。その後の報道によると、容疑者は警察に対し「京アニが自分の小説を盗んだ」と説明したという。
当初、京アニ側は容疑者から小説が送られてきていたことを認識していなかったが、後に実際に容疑者と同じ名義での小説が送られていたことが明らかとなった。つまり容疑者は、京アニが制作した何らかの作品に、自分が京アニに送った小説の内容が無断で使われたと認識しているようであり、それを恨んでの犯行であると考えられる。
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さて、最初に「パクりやがって!」と言ったとする報道を見たときにふと「そう言えば以前に、京アニがパクリと言われていた話があったなぁ」と思いだした。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というライトノベル作品を京アニがアニメ化した際に、主人公である自動手記人形であるヴァイオレットの姿が金髪で青い服をイメージカラーとしていることから、人気作品である「Fateのセイバーのパクリだ!」として、まとめサイトなどを中心に盛り上がったことがあったのである。
「パクリ」の話題というのは、ネットでは常に盛り上がる話題の1つである。やれ、あのマンガがこのマンガのポーズをトレースしただの、あの作品の設定はアレに似ているだのと騒がしい。
そうした騒がしさを促進しているのが、いわゆる「まとめサイト」の類である。
まとめサイトでは、アクセス数の多少が収益を左右するために、ネットを見ている人たちの目を引こうと、刺激的なタイトルを付ける。こうした中で様々な「パクり」が生み出されていくのである。ヴァイオレット・エヴァーガーデンの件も、そうしたまとめサイトが生み出したパクリ疑惑の1つである。
自分勝手なマナーやモラルが押し付けられ
こうした「パクリ」の矛先は決して商業作品にだけ向くわけではない。pixivなどの投稿サイトに絵をアップしているだけの個人の作品に対してまで、別の個人の作品に似ているといい出す人までいるのである。
商業作品であっても、よほど有名な作品でも無ければ似てしまっても仕方ないというのに、無数の個人作品に似ているも似ていないも無いはずである。また、絵柄が似ている、設定が似ていると言うだけでは著作権上の保護の対象にはならず、似ていたところでそれがどうしたという話ではある。
しかし、ごく一部の界隈では、そのような常識的な態度が通用せず、嫉妬や妬みはもちろん、内輪の自分勝手なマナーやモラルが押し付けられ、がんじがらめになっているような側面が存在するのである。容疑者は、こうしたまとめサイトや、作品発表の場から、「パクリは悪である」という偏った考え方を植え付けられていたのかもしれない。
また、この事件が報じられた当初、ネットでは「犯人は在日(韓国・朝鮮人)に違いない」や「NHKディレクターと容疑者に接点があったに違いない」などという情報が、主にまとめサイトなどによって流されていた。
「犯人は在日に違いない」は事件が発生した直後から。「NHKディレクターと容疑者に接点が」は、事件発生数日後から発生した。
「犯人は在日」という情報は、何らかの事件が起きた際に、もはやネットの定番として流される情報である。たとえ後から実際に犯人が在日であると分かったとしても、それは「その情報が正しかった」のではなく「でまかせがたまたま合っていた」に過ぎない。雨乞いの踊りをずっと踊っていれば、いつかは雨が降るのと同じである。
一方で「NHKディレクターと容疑者に接点が」には、一見、根拠らしきものがあった。事件が発生して少し後に「放火されたスタジオは、カードによって開閉するセキュリティが存在するが、当日は来訪者が多いためにセキュリティがオフになっていた」という報道が行われたのである。
これに目をつけた人たちがまとめサイトなどで「NHKのディレクターが容疑者にセキュリティの情報を流したに違いない!」という憶測を流し始めたのである。後に、放火されたスタジオには特にそうしたセキュリティはなく、夜間はシャッターが降りているが、昼間は普通の会社と同じように、開放されていたことが確認されている。
被害者意識が生み出される
「在日」も「NHK」も、ネットの一部の人達に非常に嫌われている存在であり、嫌われている人たちが犯罪に加担しているという情報は、まとめサイトにとってはアクセス増加のための餌となる。
そして後にそれが嘘だと分かった後も、まとめサイトが何らかの責任を負うことは無いし、またそうした情報を望む人たちも「疑われるのは普段の行いが悪いからだ」と主張して、自分たちの差別心を一切顧みようとはしない。
そうしたまとめサイトの供給と、ネットの人たちの需要の関係性から、「僕たちの大好きな日本は、在日やNHKに侵略されようとしている」という被害者意識が生み出されているのである。
京アニの事件が起きたときに容疑者が口にしたとされる「パクりやがって!」という言葉は、ネット独特の「正義」を、社会一般的にも通用する正義であると確信していたから発せられた言葉ではないかと、僕は思う。
容疑者が京アニのスタジオにガソリンを撒き、火をつけたとき、彼は自らを「紛うことなき正義の側」であると認識していたはずだ。
「小説をパクられた被害者である自分が、悪の京アニに正義の鉄槌を下すのだ!」
それは独りよがりの正義ではなく、ネットでみんなが認める正義である。そう彼は認識していたのではないだろうか。
「正義」への賛同
容疑者がガソリンを撒いて35人もの人を死に至らしめたことについて、容疑者自身もそこまで炎が広がると考えてなかったのではないかという見方もある。実際、彼自身も炎に巻かれてしまっており、容疑者の予測を大きく超えた被害を京アニに与えてしまった可能性も考えられる。
しかしその一方で、犯人はやはり警察に対して後悔を述べるのではなく「京アニが小説を盗んだこと」を主張していた。それは犯行理由の説明というよりも、自分の行為に正当性があることを警察に訴えていたのではないだろうか。もしこれがネットの場であれば、自分の小説を盗んだという大悪党の京アニが「炎上」すれば、みんな自分の正義を認めてくれるはずなのだ。だから自分は悪くないのだ。自分は被害者なのだと。自分の行為は正義なのだと。
今のネット社会では、誰もがすぐに「正義の存在」になれる。それは決して今回の事件の容疑者だけの話ではない。
昨年に話題となった一部の弁護士に対して大量の懲戒請求が発生した問題も同じである。この事件もまた、ブログに提示された「正義」に対して、多くの人達が賛同し、自分が何をしているのかの自覚も無いままに、裁判沙汰になるような問題行為にまで至ってしまったという問題である。
そして京アニの事件は、犯人が捕まった後も、ネットでは「正義」が叫ばれ続けている。在日、NHKに続く、次の「悪」は「マスコミ」だ。
ネットでは事件現場の近隣住民に取材するマスコミを指して「迷惑行為をしている」と騒いでいる。ネットでは当たり前のように「マスゴミ」という言葉が使われる。確かに、多くの人が悲しみにくれる中、仕事としての取材を行うマスコミは邪魔な存在であることは間違いがない。ただ、そうしてニュースが伝えられなければ、いくら凄惨な事件であってもすぐに風化してしまうということもある。
特に、共同通信社による被害者の遺族やその友人知人に自主的な情報提供を求めるネット上での呼びかけについてすら、「遺族の声を飯の種にしている」などという非難の声が上がったことには首をひねらざるを得ない。
自覚もないままに
では、正義ヅラして悪のマスコミを叩くネットメディアは、本当に正しい側にいるのだろうか? マスゴミは事件を飯の種にしていると言うが、このような正義を煽り立て、ブログのアクセスを稼いでいるまとめサイトもまた、アクセス数によってお金を稼いでいるではないか。
「マスコミ」とは「マスコミュニケーション」の略語であり、「大衆に向けた情報発信を行うメディア」がマスメディアである。
ネットはマスメディア=マスコミを盛んに非難するが、その一方でネットもすでに誰もが使うメディアとなって久しい。ネットを用いて大衆に情報発信を行う「まとめサイト」や「動画共有サイト」なども、もはや「マスコミ」である。
そのことに自覚はあるのだろうか? まとめサイトなどが事件現場の近隣住民に取材をすることは少ないのかもしれないが、では一方で「犯人は在日」「NHKディレクターと容疑者に接点が」などと、憶測で虚偽情報を垂れ流し続けたことは、迷惑行為では無いのだろうか?
ネットメディア自ら、そうした疑念を提示できていないことに不安を覚える。僕は、京都アニメーションに火をつけた容疑者を生み出したのは、ネットメディアがアクセスアップのために生み出した、「正義」と「悪」という二元論を良しとする考え方ではないかと疑っている。
ネットで生み出された悪を叩く。そのことに疑問を覚えない人たちが、実社会で害を為す。そのことの責任をネットメディアは負うことができるのだろうか? 僕には、未だネットメディアは、その段階にすら達していないように見える。自らもマスメディアであることを理解できず、自分たちが報じることの責任を自覚できていない。
今そこにある「正義」を疑う。こうした凄惨な事件が発生した時期にこそ、それがネットメディアやネットメディアを利用する人たちに求められているのではないだろうか。
外部リンク現代ビジネス