所変わって、三人はネオン街を歩いている。
楽園。ラッキーバニー。鳳仙花。キスショット。原色の妖光はそれぞれの店名を朧に照らしていた。
「レボリューション。天文学の世界じゃ公転を指す。つまり一回りして戻ることを指すんだ。知ってた?」
「へぇ。あ、天文学といえば。地球はあと四十億年したらアンドロメダ銀河に衝突されるらしいですよ。恐ろしいですねぇ」
「へえ。あ、でもでも。天狗も河童も、それほど長生きではないんですって、はは! 知ってました?」
「へぇ~」
三人の期待と昂揚は、突けば爆ぜてしまいそうなほどに不確かだった。誰もが「よそうか」の一声を胸に秘め、当たり障りのないやり取りで平静を装う。
「寺子屋の、子供の話でさ。母親が水商売をしてる子供がいたんだよ。授業参観の日、その母親が、きらっきらした服着て、授業を観にきてさ。その子が恥ずかしさのあまり言ったんだと、立つ場所間違えてんじゃねぇ! って!」
「へえ。それ、今度記事のネタにしていいですか」
「え。う、うん。いいけど。で、でも、人から聞いた話だからなあ」
「いいんじゃないですか、別に。文さんの新聞読んでる人なんて、もうどこにもいませんよ。きっと。あはは」
三人が発狂を介さずに仕事の話が出来るのは、頭が別のことで一杯になっている場合のみだ。各々、そこらにのさばる貸し春屋や、店先の招き猫達に気をやっては、チラチラと目を泳がせていた。
みな、不確かな昂揚を突かれるのを待ってるのだ。平常より少し大きめの話し声で、三人は色めく通りを闊歩する。しかし、三人に声を掛ける者はおらず、招き猫達は、まるで、三人が見えていないかのように振る舞った。あたりから聞こえる他人たちの「おにいさん、どうですか」や、「今日はそんなつもりなかったんだけど……いくら?」といった間の悪いやり取りにやきもきしながら、三人はネオン街を往く。
そうしてしばらくすると、三人は終ぞ声のかからぬまま、とうとうネオンの切れ目に辿り着いてしまった。少量の落胆と、下心を街に見透かされたような面映さを抱えながら、三人は、これでよかったのかもしれない、と息をついた。というのも、三人がこういった色街を、下心を持って練り歩くのはこれが初めてではなかった。これまで何度も、キャッチに捕まり、あれよあれよと個室に入れられ、商品を待った。しかし三人は、肝心の事が始まるその瞬間、みな一様に恐れをなして個室を飛び出し、逃げ出した。三人はその度に、公園のベンチに座り、肘を抱えて、震えながら黙って酒をやる。誰も何を言うことのない奇妙な時間は、三人にとっては日常の一部だった。
ネオンの切れ目、背後に色めく喧騒を感じながら、文はなにかきまりの悪そうに、いやあ、と発声しては頬を掻く。喧騒にすら下心を見透かされたようで、どこか気恥ずかしい三人は、ようやく、胸中に秘めっぱなしの「よそうか」の四字を吐いてしまおうと考えた。
「こんばんは! どうですか、可愛い子、いますよー!」
そのときだった。どこから現れたかその妖怪は文たちに声をかけた。妖怪はカマーベストに蝶ネクタイ、一本足の看板と、見るからにらしい風体をしている。不意を突かれた三人の心拍数は急上昇した。
声の震えを堪えながら、文は言った。
「えっと。どうですか、とは、どういった……」
「やだな“おにいさん”。どういう気持ちでここを歩いてたの?」
カマーベストの妖怪は、翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ、癖のある髪を揺らしながら、けたけたと笑う。三人の気を引いたのは妖怪の放った“おにいさん”という言葉と、その妖怪の身体的特徴だった。
「も、椛。この客引き女の子だよ。それに、こんな小柄な……」
「ええ、ええ!」
対応をする文の背後で、椛とにとりは声を潜めた。
「ええと、じゃあその。……なんてお店なんですか」
平静を繕う文の内心も、二人と同様に驚きと期待で満ちていた。というのも、三人は三人とも、多少なりとも少女性愛の気があった。文はマゾヒズムから、椛はサディズムから、にとりは屈折した自己愛から、少女を好んだ。
「デマイゴってお店なんだけど、最近オープンしたの。喫茶《バー》だよ」
三人の視線は妖怪の、少女らしい身体に釘付けだった。胸の前で構えた立て看板の向こう、カマーベストの向こう、シャツの向こうの、僅かな膨らみ、伴うシャツの撓みを、三人は見逃さなかった。
「喫茶? ええと、どんな喫茶なんですかね」
文の言葉に対する返答がどうあれ、三人の肚は既に決まっていた。各々、自室のベッドの下に『ミネハハ』を隠している三人が、この妖怪に着いていかないことは有り得なかった。
「んとね。なんていうんだろ、ハプニングなお店?」
「行くよ、行くからさ。連れてってよ」
堪えきれなくなったにとりが文の背後から割り込む。妖怪は、にとりの言葉に「よかった。じゃあ行こっか」と微笑んで、三人の引率を開始した。
ネオン街の入り組んだ路地に入り、一寸歩くと、歩きながら、妖怪が口を切った。
「着くまでお話しようよ。おにいさんたちは何やってる人なの?」
「私は新聞記者をしています」
店に着いたとして、客引きが客の対応をするケースは稀だが、三人にはどうしても、あわよくばの気持ちがあった。であれば、文の即答も必然である。「え、記者! すごい」等の美辞麗句に文は、いやあ、と頭を掻く。文の気分の良さと引き換えに煩悶したのはにとりだった。
にとりは技師で、組織の中でもそれなりに重要な仕事を任されていたが、それでも技師という肩書は、新聞記者という肩書のそれには遠く及ばない、矮小なものに思えた。しかし、あわよくばを望むのはにとりも同じだ。この妖怪と思しき少女に、どうにかよく思われたい。にとりが頭を捻っていると、少女が口を開いた。
「じゃあ、そっちのおにいさんは、なにしてるひと?」
「えっと、わたしは。なんといったらいいか。そうだな、社会イノベーションに、携わっているよ」
「え、すごい!」
にとりは心でガッツポーズをした。おにいさん、という呼称が気にならなくもなかったが、今となってはそれも逆に、客あしらいと客、という関係を明確に示唆しているようで、その関係性はにとりの“あわよくば”を殊更刺激した。
それから、文とにとりはいい気分のまま、一番うしろを歩く椛に気をやった。客引きの少女は椛にも同じことを尋ねるに違いない。山の犬っころ風情がどう答えたものか。二人が腕を組みしめしめとやっていると、少女が例の質問を繰り出した。
「じゃあ、そっちのおにいさんは?」
「私は公務員です」
椛は然として言い放った。文とにとりは驚愕した。初対面の他人とはいえ、こいつは、こうも平然と嘘を吐けるものか。少女の「え! すっごーい! 幻想郷にも居るんだ、公務員」といった嬌声の中、二人は驚きを隠すよう曖昧に笑いながら、顎に手を添えて椛の脳の仕組みを慮った。
しかし、言及すべきは文とにとりの、今となっては名ばかりの、腐りかけの肩書を臆面もなく口にできるメンタリティだ。その点では、椛は二人よりも“まとも”であると言える。
屋と屋の狭間にはフェンスが張られ、フェンスの向こうには大きなゴミ箱があった。ゴミ箱から溢れたゴミはフェンスの網目に飽和して、害獣達は夜食にありつく。そんな路地を歩く三人が考えるのは、ハプニングな喫茶とはなんぞや、そればかりだった。
そんな光景をいくつか通り抜けたころ、少女は立ち止まり、看板を掲げ、言った。
「着いたよ! ここが『喫茶デマイゴ』でーす! ちょっとボロっちいけど、中はきれいだから安心してね」
少女の言う通り店はボロく、木製の看板には大きく「胎」という文字が達筆に綴られたていた。みるからに怪しいが、そう考える者はこの場にはいなかった。酔いか、欲か。はたまた客引きの、妖怪少女の妖力か。
「なんだか、雰囲気のある店構えですねぇ! どれさっそく……」
「あ、まてよ射命丸。わたしが先に入るんだぞ」
文とにとりは能天気に店の扉を開け、店内へと消えた。扉が閉まると同時に、扉の向こうから二人の悲鳴が響く。
暫し、沈黙。
「……ほら、ふたりとも行っちゃったよ。さ、おにいさんも早く入って入って」
残った椛を急かすように、少女が言う。
椛はアルコールに溺れた頭で、なにか不思議なことが起こっているぞ、と、自身の置かれた状況を僅かに悟った。
「ええと」
しかし椛には空気の急変に適応出来るほどの器用さは無かった。とりあえず、とりあえずで、店の扉を開ける。そして、椛はすべてを悟った。
扉の開けると、そこには闇が在った。そこにあるはずの壁も、床も、視えないほどに、そこは漆黒に塗りつぶされていた。視線をくまなく泳がせど、文の姿も、にとりの姿も見当たらない。
ああこれは。騙されたのだ。床の見えないことから察するに、二人は落ちていったのだろう。二人とも、能天気に、勇み足で踏み込んだものだから。
深く広い闇を眼前に、椛はおもむろに口を開く。
「あの、すみません」
「なあに?」
少女の声は椛の耳元、あまりにも耳元に響いた。背後に、いる。触れられていないけれど、ぴったりと、背中にくっついている。
椛は本能で、もう逃れられないことを察した。
「……お名前、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「こいしはね、こいしっていうんだよ」
椛の背中に衝撃が走った。バランスを崩し前のめりに足を踏み出す。しかし、椛の予想通り床を踏みしめることはなく、足は暗く広がる虚空を切った。
「三名様ごあんなーい!」
そのまま、落ちていく。どこまでも、落ちていく。椛は全てを諦めて、あの世で二人に再会した際、自分のみが知った少女の名を、自慢してやろうと、そう考えた。