- 沢井史
- 2019年8月13日(火) 10:50
甲子園に行きたいのなら監督が腹をくくるべき
――高嶋さんは監督時代、球数に関して気を遣われていたことはありましたか?
私は普段の練習から球数を設定していました。投げるのは1日でだいたい120球まで。それはキャッチボール込みです。キャッチボールを20球すれば、ブルペンは100球です。勝てるか勝てないかは置いておいて、試合では相手を見ながらまんべんなく投げさせれば、故障にはつながらないと思います。
――普段の練習から投げすぎないことを念頭に置いてきた。
そうですね。例えば今日は60球投げたいなら、キャッチボールは60球までとか。100球投げたいならキャッチボールは20球とか。ウチは野手兼任で投げる子も多かったですが、兼任の子はブルペンで投げさせなかったですからね。ノックから投げているので、そこまで投げさせる必要はないですから。
――そういう投手も含め、勝ち上がりや対戦相手を見ながらどう起用するかですね。
大一番の試合だと、どうしても勝ちたいからエースでいきたいと思いますよ。それは私も分かります。2番手投手を投げさせて負けたりすると、周囲から大きな批判を食らいますからね。ただ、私はそういう声を一切気にしませんでした。責任を取るのは監督ですから、自分の好きなようにすると、大会前に理事長にも言っていました。甲子園に行きたいから、俺はエースを決勝戦でしか使わない。エースを使わずに決勝まで行きたいことをアカンと言うなら、僕をクビにしてくださいとも言いました。それくらいの覚悟でしたよ。
――反対に、絶対的なエースがいるチームこそ、投手起用は難しい。
難しいですね。勝ちたいからやっぱりエース……となってしまいがちですが、エース、エースでいったら、そりゃあ壊れますよ。特に昔から監督をやっている人は、エース、エースでいきがちになりますからね。でも、私はできるだけ違う投手を使って、ここぞという場面でエースを使いました。実は今まで県大会で負けた試合は、ほとんどがエースは投げていないんです。これも監督それぞれの考え方ですが、私は常に腹をくくって試合をしてきました。指導してきて、県大会では20回以上決勝に行って、負けたのは一度だけ。甲子園に行きたいならエースを勝ち進んだときに使えるようにするのが理想ですね。
球数ではなく「連投」が問題
――そうなると、球数よりももっと違う部分を制限する必要があると?
球数制限よりも“連投”ですよね、制限する必要があるのは。勝ち上がって行ったときほど、上(決勝や準決勝)で何球まで(の球数制限を設ける)、となると思うんですが、そこを制限するのは難しい。過去に勝ち上がった投手に聞いても、3連投になるとかなりキツイと言います。その中で間に1日でも空けば、ピッチャーはどれだけ楽になるか。
球数、球数と言っても、決勝まで勝ち進んで潰れた投手って実際に確率として見ればどれくらいいますか? 何百人もいる中で、ほんの数人なんじゃないですかね。そこだけを切り取って大きく言うのもね。以前、松坂大輔投手(現中日)が夏の甲子園で連投したことで渡辺元智さん(元横浜監督)に聞いたことがあったんです。そうしたら、プロにいくために入学した頃から体を鍛えさせていたそうです。そうやって、上を目指して体を鍛えてきた子は、そんなに簡単には壊れないです。
――球数だけをクローズアップするのは少し違うと?
怪我をする要因は球数だけではなく投げ方にもあります。正しい投げ方ができていないから、故障する。だから指導者の勉強が必要です。良い投げ方をすれば、少々多めに投げても潰れませんよ。そちらにもっと重きを置いて議論していくべきですね。昔は投げないと実戦感覚を覚えないとよく言いましたけど、それも正しい投げ方でないと意味はないですから。ただ、専門でもない素人の指導者が触ったら潰れる可能性があるので、ウチは投手に関してはピッチングコーチを必ずつけるようにしていました。フォームひとつでもおかしいと思うポイントは、専門のコーチでないと分からないですから。あとはマッサージやケアをもっとしっかりする。昔はアイシングもしていなかった。そういったケアの徹底も必要ですね。
――野球界の未来のためには、まず誰かがアクションを起こすことが必要だと感じますか?
新潟県で球数制限を設定するというニュースがありましたが、あれもテスト的にやってみたらいいのにと思いますね。良い事例も悪い事例も出てくるだろうから、今後の良い参考になるでしょう。高校野球の現場では、球数制限そのものに反対する人がほとんどだと聞いていますが、本当に良いのか悪いのか、一度試してみるべきですよ。そういう意味では、新潟県の関係者の方は大きなアクションを起こそうとしたと思います。そこはもっと称えられるべきですよね。
(企画構成:株式会社スリーライト)
高嶋仁(たかしま・ひとし)
1946年5月30日生まれ。長崎県出身。高校時代は海星高(長崎県)で投手兼外野手として夏の甲子園に2回出場。日本体育大では4年次に主将を務めた。大学卒業後、72年に智辯学園(奈良県)監督に就任。80年に智辯和歌山高(和歌山県)監督に就任し、2018年の第100回全国高等学校野球選手権記念大会終了後まで監督を務めた。春夏通じて優勝3回(94年春、97年夏、00年夏)。甲子園春夏通算38回出場、通算勝利数68勝(35敗)は歴代最多を誇る。主な教え子は、中谷仁(元阪神・現智辯和歌山高監督)、武内晋一(元東京ヤクルト)、西川遥輝(日本ハム)、東妻勇輔(千葉ロッテ)ら多数。