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【社会】

<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後74年> (下)迫るソ連兵「自決しか」

小谷洋子さん(右)は旧満州の地図を示しながら、死を覚悟した当時の体験を福浦記者に話した=横浜市港南区で

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◆旧満州から引き揚げ・小谷洋子さん(86)×横浜支局・福浦未乃理(26)

 「満州はわかる?」

 小谷洋子(こだにひろこ)さん(86)=横浜市港南区=が、模造紙に描いた自作の旧満州(現中国東北部)の地図を広げた。

 一歳の時に家族で満州に渡り、敗戦から約一年後の一九四六(昭和二十一)年十月、十三歳で日本に引き揚げてきた小谷さん。当時の歴史はある程度知ってはいるものの、実際に話を聞くのは初めての私を見て、ひと呼吸置いて語り始めた。

 四五年八月十日、ソ連軍が前日に満州に侵攻したというニュースがラジオ放送で流れた。東西の国境線から小谷さんたちが住むハルビンに到着するまで、一週間ほどとうわさされた。

 「どうやって死のうか」。自宅の応接間で繰り広げられた大人たちの会話に、小谷さんは隣の寝室から耳を澄ませた。若い男は皆徴兵されて戦う力もない。自決する以外の選択肢はないようだった。

 青酸カリを飲むか、日本刀を使うか、広場に集まって手りゅう弾で爆死するか…。「父は何も言わなかったが、一週間で死ぬんだなと思っていた」。女学校からの帰り道、友人同士で「お宅はどうやって死ぬの?」「今度会うときはあの世で」と明るく振る舞ったが、一人になると恐ろしさが込み上げた。小谷さんは記憶をたどるように一点を見つめ、「すごく怖かった」と二度繰り返した。

 しかし、八月十五日に日本の降伏が知らされ、状況は一転。「死ななくていい」とほっとしたが、玉音放送の一時間後には町中で銃声が響いた。敗戦国としてソ連兵を迎え入れることになり、父に「何をされるか分からないから」とバリカンで丸刈りにされ、男物の服を着た。

 ソ連兵が扉をたたくたびに自宅裏にある物置に身を隠した。壁の隙間から、ぶかぶかの防寒服を着たソ連兵が数メートル先で機関銃を抱えてうろついているのが分かり、「胸がドキンドキンと言って、外に音がもれるんじゃないかと思った」。物音を立てれば、見境なく撃たれてしまう。そうして死んでしまった人や、ソ連兵に犯されて自決した女性がいることも聞いていた。

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 次々と聞く壮絶な話に、私の顔はこわばっていた。「その場にいたら、私はどうするのか」と考えようとしたが、正直、死と背中合わせの日々を想像することもできなかった。

 「ただ、自分たちが加害者だったのも確か」と小谷さんは言う。当時は意識していなかったが、日本が建国した満州国に暮らしていた自分も、「支配する側」にいた。日本軍の中にも、ソ連兵のように戦場で略奪や暴行をした兵士もいた。「戦争とは愚かしいもの。大義名分をかざして、正しいと思って始めるんだろうけれど、傷つけ合って、殺し合ってしまうものなんだよねえ…」

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 小谷さん一家は、自宅に住み込みで働いていた中国人の助けなどを得て、四六年十月、引き揚げ船で帰国を果たした。結婚を機に相模原市へ、その後、横浜市港南区に移り住み、七十歳まで雑誌記者として働いた。五年前から「ちっちゃな種をまくために」と語り部を始め、市内の小中学生に訴えている。「戦争をしないってことが大事なんだねえ。始まってしまったら、その大きな波からは逃れられないから」

 小谷さんの隣に座って話を聞きながら、私が「知っている」と思っていたのは、年表のような歴史だったと気付いた。そこに多くの人が暮らし、一人一人が生死の境をさまよった事実に思いを馳(は)せたことはなかった。

 「始まってしまったら逃れられない」。小谷さんの言葉が深く突き刺さった。戦争を身をもって体験した人々がいなくなった時、戦争の愚かさをどう伝えていくことができるか。私たちの世代は、それが問われている。

 <ソ連の対日参戦> 太平洋戦争終結前の1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破り宣戦布告。9日に旧満州に侵攻し、関東軍は敗走した。当時の満州は約155万人の日本人が暮らしており、多くの人がソ連軍から逃れて命からがら日本に帰国したが、戦死や逃避行中の病死、餓死などで約24万人が犠牲になったとされる。

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