日航機墜落事故から34年…坂本九さんが生前最後の番組で歌ったあの“名曲”に家族は救われた
- 日航機墜落事故に巻き込まれた坂本九さん。家族は苦悩のどん底に…
- 事故当日に収録した番組で歌われた曲が家族を救うことに
- きっかけはメモ!妻・由紀子さんが明かす坂本九との馴れ初め
今から34年前に起きた日航機墜落事故。
報じられた犠牲者の中には、昭和芸能史を彩った大スター・坂本九さんの名前もあった。
8月8日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、番組MCの坂上忍が坂本さんの妻・柏木由紀子さんと2人の娘を直撃。事故当日の坂本さんの行動や知られざる素顔を明かした。
『上を向いて歩こう』は世界中で大ヒット
坂本さんの自宅を訪れた坂上。
そこには、坂本さんが好んで集めた時計など数々の遺品が飾られていた。
『明日があるさ』(1963年)や『幸せなら手をたたこう』(1964年)など、数々のヒット曲を持つ昭和を代表するスター歌手の坂本さん。
中でも有名なのが1961年にリリースされた『上を向いて歩こう』。この曲が初めてテレビに流れたのはNHKの人気番組『夢であいましょう』。高度経済成長期にあった当時、日本人の心に響いたこの曲はたちまち大ヒットを記録。
その人気は海を越え、海外では『SUKIYAKI』と題名を変えてリリースされたこの曲は、アメリカ・ビルボード誌のチャートで3週連続1位を獲得した。
かつて坂本九の曲をカバーし、共演したこともある歌手の南こうせつさんは「九ちゃんの声は独特で、“歌はこうあるべき”という概念から飛び出している」とその魅力を語った。
家族が語る事故当時の様子
プライベートでは、1971年に女優として活躍していた由紀子さんと結婚。1973年に長女の花子さん、1976年に次女の舞子さんが生まれ、幸せな日々を送っていた。
だが、1985年8月12日、単独機の事故としては史上最悪となる520人の死者を出した日航機墜落事故に坂本さんは巻き込まれてしまう。知人の選挙応援のため、東京から大阪に向かうこの飛行機に搭乗していた。
事故のテレビ速報が伝えられたのは午後7時30分頃。その時間に由紀子さんと舞子さんはお風呂に入っていたため、第一報を家族で最初に知ったのは花子さんだったという。
当時11歳だった花子さんは、「いまだに思い出すとつらく、生々しくもある」と話しながらも、由紀子さんたちは事故当時の様子を語ってくれた。
「午後6時12分羽田発の飛行機が、レーダーから消えた」という第一報に由紀子さんは「“レーダーから消えた” というのもよく分からなくて。迎えに行っている人に電話したら、『まだ着いていません』と言われて、それを聞いて『えっ』となりました」と振り返る。
そうこうしている間に、自宅には多くの取材陣が集まってきたと花子さんは記憶をたどった。
事故から2日後の8月14日、いまだに安否が確認できない中で開かれた記者会見で由紀子さんは「とにかくもう、祈るだけです。早く会いたいです」と話し、坂本さんの生存を信じていた。
しかし、5日後の17日に坂本さんの遺体が確認され、翌日には葬儀が行われた。
葬儀後の会見でも由紀子さんは、記者から今後のことや子どもたちの様子について聞かれ、つらい中でも気丈に振る舞い、質問に答えていた。
その時のことを由紀子さんは「『本当に帰ってくる』『絶対大丈夫』『そういう人じゃない』とか、あり得ないようなことを思っていました」と語った。
芸能界からもその死を悼む声が多く寄せられ、中でも事故から9日後の21日に放送されたフジテレビの『夜のヒットスタジオ』では、親交のあった森進一さんが予定になかった坂本さんの名曲『見上げてごらん夜の星を』を目に涙をためて歌い上げた。
心の整理もつかないまま慌ただしく過ぎる日々の中で、やがて由紀子さんたちは大切な人を思い出すことさえもつらく感じるようになってしまう。
由紀子さんは「パパの『パ』の字も私は言わなかったですし、子どもたちからもなかったです。みんなあえて口を閉ざしていました」と、当時の心境を明かした。
生前最後の番組で歌った曲が家族を救った
由紀子さんたちは、今になって振り返ると不可解にも思える、 事故当日の坂本さんの行動についても坂上に明かしてくれた。
まずは、次女の舞子さんの記憶に残る坂本さんの一言。
事故を予測していたのか、坂本さんは事故当日の朝に空を見上げて、「今日は雲が速いから飛行機に乗りたくないんだよね」ととつぶやいた。
舞子さんはその時、「何でそんなことを言うんだろう」と、疑問に思ったことを覚えているという。
そして、前日の夜にはこんなことも。
坂本家では、坂本さんが娘を抱っこして冗談を言って楽しませるのが当たり前のような光景だったが、その日は「舞子を抱きしめて、目をつぶっていたんです。いつもと違うなと思いました」と由紀子さんは明かした。
さらに、事故当日に家を出る際に、坂本さんが見せた何とも言えない表情が由紀子さんの印象に強く残っているという。そして、これが由紀子さんが目にした坂本さんの生前最後の姿となった。
この日、午前10時半頃に家を出た坂本さんは、東京・渋谷区にあるスタジオでラジオの公開収録を行い、午後6時12分に東京・羽田発の飛行機に乗っている。
生前最後となったラジオ番組で坂本さんは、当初の予定にはなかった『心の瞳』という曲を番組内で披露した。
そしてそれまでメディアでは一度も歌ったことがなかったこの曲が、坂本さんの死によって苦悩のどん底に陥った由紀子さんたちを救うことになる。
事故から半月後、坂本さんが事故当日に収録したラジオ番組が放送された。そこで流れてきた『心の瞳』がとある中学校の音楽教師の耳にとまり、翌年の3月に行われた卒業式の合唱曲にすると、たちまち評判が広まり、 やがて全国の中学校の合唱曲として歌われるようになった。
当時、その曲を広めた元音楽教師の田中安茂さんは「中学生の時期は、中学生ならではの葛藤があるんです。その気持ちを乗り越えていく、それが『心の瞳』の歌詞と合っていた。生徒が涙を流しながら歌うんです。気持ちを柔らかくして、一つの達成感を得られる。『心の瞳』は、まさにそういう曲でした」と明かした。
やがで『心の瞳』は、音楽の教材にも載るほどの定番曲に。すると、いつの頃からか、由紀子さんの元には全国の小中学校から感謝や励ましの手紙が届くようになった。
こうして、『心の瞳』が合唱曲になっていることを知った由紀子さん。坂本さんがこの曲を「僕たちの歌みたいだな」と話していたこともあり、母娘3人で歌い継いでいくことを決め、コンサート活動を開始したという。
ラブラブ夫婦!坂本九の意外な素顔
さらに、由紀子さんは坂本さんとの出会いや、意外な素顔についても明かした。
1968年の夏、撮影スタジオで初めて顔を合わせた2人。付き合うようになったきっかけは、坂本九からの2度にわたるアプローチだった。
「午後から始まるスタジオをちょっと見にこない?と言われて、(坂本さんが)台本の片隅に電話番号を書いて…」と由紀子さんから馴れ初めを聞いた坂上は大興奮。
電話番号を渡されても電話しなかったという由紀子さんが「それから1年ぐらいして陣中見舞いに行ったんです。そしたらまた楽屋に通されて、メモを渡されて」と告白すると、坂本さんの“手書き電話番号メモ攻撃”に戸惑う坂上。
今でも大切に保管しているというその時のメモを見た坂上は「1回目にメモをもらっても電話しなかったんですよね?何で取っておいたんですか?」と疑問を持ちながらも、照れた表情を見せる由紀子さんを見て「やっぱり特別なんですよね」と、納得した。
その後、交際を始めた2人は約1年後に結婚。挙式は、坂本さんの幼少期の疎開先・茨城県笠間市で行われた。
さらに、番組ではアツアツすぎる2人の姿が映された新婚旅行の映像も公開。
両親のラブラブぶりに花子さんは「姉妹で父親を取り合うことはよくあると思うんですけど、そこに母が入ってきちゃう」と明かし、「3人女性で、男性1人と言うことで、本当にモテモテで『これが銀座だったら!』と言っていました」と坂本さんのプライベートなエピソードを明かす柏木さんに、坂上も「そんな冗談言うの?」と驚いていた。
家族との時間を何よりも大切にしていた坂本さん一家には、歌手の家庭ならではの楽しみもあったという。
それは家族でオリジナルソングを作ること。母の日には『ママありがとう』という曲を作ったり、坂本さんが由紀子さんに『マイ由紀子』という歌を捧げたり、由紀子さんと2人で作ったプライベートなデュエットソングまであることが明かされた。しかもこうした歌は、子どもたちが寝静まった後に夫婦2人で歌っていたという。
こうした話を聞き、由紀子さんたちの中で坂本さんが大きな存在であり続けていることを実感した坂上。今では孫もでき、“おばあちゃん”となった由紀子さんは「(孫も)最初に覚えたのが『上を向いて歩こう』なんです」と笑顔を見せた。
スタジオでは、ゲストの三田寛子さんは「私の方が元気を頂けて、大切に丁寧に生きなきゃと思いました」と微笑み、坂上も「花子ちゃんや舞子ちゃんと話をしていると、愛されて育っていることが全部出ているんだよね」と話した。
(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)