クリエイターズ・サバイバル アーティストの戦略教科書 第1回 浅田弘幸:漫画を描いていない時も漫画家は漫画家 (1/2)
『I’ll~アイル~』『テガミバチ』などの浅田弘幸さんにインタビュー。
「クリエイターズ・サバイバル アーティストの戦略教科書」とは
クリエイターに役立つ情報を発信するWebメディア「いちあっぷ」がお届けする連載企画。ねとらぼエンタでは、各インタビューの前編を転載掲載していきます。後編は「いちあっぷ」のサイト内でご覧ください。
「クリエイターズ・サバイバル アーティストの戦略教科書」――記念すべき第1回目に登場していただくのは、人気の少年漫画家・浅田弘幸氏だ。
バスケットボールに青春をかけた少年たちのかけがえのない日々を描いた『I’ll~アイル~』。そして、泣き虫の郵便配達少年が成長し、世界を救済するまでを描いた壮大なファンタジー『テガミバチ』。浅田さんが描く漫画は、一見クールでありながらその根底には人々の熱い思いや優しさがあふれている。
1968年横浜生まれの浅田さんは、いったいどんな少年時代を過ごしてきたのだろうか。
「両親は今も健在なんですけど、家の事情で小学生時代は施設に預けられていました。寮母さんがいて、1年生から6年生までの小学生の子どもたちが何十人かいてっていう。自分の人格を形成するうえでこのころに経験したことはかなり大きかったと思います。
何かと不自由な生活ではあったけど、苦痛に感じたことはそんなにありませんでした。むしろ今思えば共同生活を楽しんでいたと言っていいくらいです。
強いて言えば、そのころから小児喘息で、それが辛かったかな。低学年のころは喘息を理解できていなくて、夜中に突然息が苦しくなって、このまま死んじゃうんじゃないか? とか、こんなに苦しいなら死んだほうが楽なんじゃないかとか考えることもありましたから。その夜に感じたある種の死生観みたいなものは、今でも自分の中にはっきりと残っています。
ただ、喘息や寮生活というのは自分で望んだものじゃないですからね。“それでも生きていく”とあのころ感じた気持ちは、後に描いた漫画のキャラクターたちの言動に少なからず反映はされていると思います」。
――その寮生活の中で、さまざまな漫画と出会った。
寮ではテレビの時間も決まっていたし、他にほとんど娯楽がなかったから、友達と漫画の単行本を貸し借りしていつも読んでいました。
リアルタイムで最初に衝撃を受けたのは江口寿史先生の作品です。『すすめ!!パイレーツ』のころから大好きになり、『ストップ!!ひばりくん!』で人生を左右されたくらいの感じ。漫画家という職業を本気で志したのは江口先生の作品に出会ってからです。
寮では雑誌は禁止されていたので、基本的には漫画は単行本で読んでいました。だから江口先生の漫画も、手塚(治虫)先生をはじめとした巨匠たちの過去の名作も、自分としては同時代の作品という感覚で読んでいたんです。
手塚治虫先生、藤子不二雄先生、石ノ森章太郎先生、松本零士先生、永井豪先生、ちばてつや先生……。女の子に借りて少女漫画も結構読めたのは、いい経験になったかもしれません。
――先ほど言われた、このころの寮生活が人格を形成するうえで大きかったというのは、具体的にはどういうことなのだろうか。
子どもですから、当たり前に親や家族と暮らしたい。どんなに楽しそうに寮生活を送っていても、どこかで誰もが寂しさを抱えていました。
今でもつきあいのある奴が何人かいますが、当時の話はほとんどしない。松本大洋さんの『Sunny』ってあるじゃないですか。僕、あれ普通には読めないもん。自分も含めて、施設の子どもたちが悲しさを隠して日常を気張ってる姿は今も忘れられないんです。
この経験や気持ちが自分の心の根源にある気がしますね。でもだからこそ、この生活で唯一夢を見られた漫画というものが、自分にとって重要になったんでしょう。
「信じられる言葉」が自分をかたちづくってくれる
――浅田さんがオリジナルの漫画を描き始めたのは小学校の低学年からだという。
好きな漫画の模写をしたり、大きな紙を半分に折ってコマを割った漫画もよく描いていました。オリジナルといえるほど立派なものじゃないけど、自分でキャラを考えて毎日毎日描いていましたね。
漫画家になりたいという将来の夢は、幼稚園のころ、先生に絵を褒められてから漠然とですけど思い描いていました。僕が小学生のときは、漫画家はプロ野球選手とか宇宙飛行士とかと同じくらいの憧れの職業でもありましたから。
――中学生になり、漫画以外の活字の本も読むようになった浅田さんは、中原中也、宮沢賢治、武者小路実篤のような過去の文学作品から筒井康隆のSF小説まで、気になったものは手当たり次第に読んだという。
中学に入ってから急に“言葉探し”を始めたんです。わかりにくい言い方になるかもしれませんが、“自分のかたち”を作りたかったんでしょうね。お気に入りの絵や映像と同じように、“信じられる言葉”が自分をかたちづくってくれるような気がしていたんです。
それでいろいろな小説や詩を読むようになって。そのころは聴く音楽も歌詞を意識して邦楽のロックばかりを選んだり、洋楽は必ず対訳付きで聴いていました。
中也や賢治が書いたひとつひとつの言葉が身にしみました。もちろん詩の深い意味なんてわからなかったけど、一瞬で風景と感情に飲み込まれたというか、音楽と一緒の感覚だったのかもしれません。
武者小路実篤の小説からは“正しさ”を学んだ気がします。彼が描いた正しさについては、僕自身の人生観にも、少年漫画を描くうえでもかなりの影響を受けていると思います。
筒井康隆さんの小説は麻薬みたいなもので、次々に読まないと禁断症状が出るんです(笑)。中3のとき、出てたものを全部読み尽くして必死で近いものを探したんですけど、全く代わりになるものがなかった。もちろん今も。これは本当にすごいことですよね。
――そして、文学以上に漫画と隣接している表現ジャンルの映画では、大林宣彦監督の作品と出会った。大林作品が持つ切なさや懐かしさ、優しさの表現は、少なからず浅田さんの漫画に影響を与えているように思える。
大林監督の映画と最初に出会ったのは15歳のころだったかな。近所にロードショー落ちを3本立てで上映してた安い映画館があって、そこによく通っていました。あるときたまたま「転校生」がかかってて。“大林宣彦”監督と出会ったのはそのときです。レンタルビデオもまだない時代ですから、過去作品も簡単には見られなかったし、その次作の「時をかける少女」は勇んで見に行きました。
自分の漫画への影響ですか? “青春の切なさ”というか。僕自身も幼いころに感じたような、やましさと純粋さ、郷愁。あと、自分にとっての“信じられるもの”。それを描き続ける、ということでしょうか。
――大林監督とは数年前のあるトークイベントを経て、今でも交流があるという。
本当に憧れてた方なので、もう俺死ぬのかな?って(笑)。
去年、家族で映画の現場に同行させてもらったんですが、朝イチで監督はすでにいらっしゃってて、スタッフが帰った深夜も奥様の恭子さんとふたりでずっと残ってる。お体の調子が悪くて立ち上がるのも大変な状態なのに、常にモニターとにらめっこで、延々と台本にメモを書き込んでいた。創作に対する気迫に圧倒されました。
その後ろ姿を見ながら、ぼろぼろ泣けて仕方ありませんでした。あらためて、ものを作る人間はこうあるべきだと背筋を正させていただきましたね。
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