曺貴裁監督のパワハラ疑惑/六川亨の日本サッカーの歩み2019.08.12 19:00 Mon

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今日12日に配信されたスポーツ紙の電子版では、湘南の曺貴裁監督のパワハラ疑惑により電撃退任の可能性を示唆した。曺監督は2018年2月から今年7月にかけて、神奈川県平塚市内のクラブハウスや試合会場などで、選手やチームスタッフらに対して高圧的な態度や暴言を繰り返したことがパワハラ行為につながるのではないかとの指摘を受けた。アマゾンでは2018-2019シーズン、マンチェスター・Cを密着取材した番組「オール・オア・ナッシング ~マンチェスター・シティの進化~」が話題を呼んだ。グァルディオラ監督がいかにして試合前のドレッシングルームで選手のモチベーションを上げるかを描いたドキュメンタリーである。試合前は選手を鼓舞し、自信を植え付け、勝利後のドレッシングルームでは選手とともに喜びを爆発させるチベーターとしてのグァルディオラ監督を知ることができる。

一方、湘南も昨シーズンの戦いを追い、試合後のドレッシングルームなどで選手が怒鳴り合うDVD「湘南ベルマーレイヤー NONSTOP FOOTBALLの真実 第5章-2018覚悟-」
を制作し、異例の大ヒットとなった。

ただしこちらのDVDは、曺監督にパワハラ行為があるかどうかを確認する意味で試合後のドレッシングルームを撮影したとの噂もあった。曺氏は2012年に湘南の監督に就任すると7年の長期に渡ってチームを指導。昇格と降格を繰り返しながらも昨シーズンはルヴァン杯を獲得。豊富な運動量と攻守にハードワークする「湘南スタイル」を確立した功労者でもある。

ただ、その一方で長期政権は曺監督を“アンタッチャブル”な存在にする危険性もはらんでいて、フロントの人事にも口をはさむようになったと聞く。さらにコーチ陣は2年以上在籍したスタッフはいないというのも尋常ではない。

DVDでは試合後にGK秋元陽太とMF梅崎司が試合のある場面で怒鳴り合うシーンがあるが、これは試合後に曺監督のパワハラ行為を少しでも緩和させようと、選手たちが“自衛”のため先に怒鳴り合いを始めたとも言われている。

敗戦後は監督が選手に怒りの矛先を向けることもあるだろうし、次の試合に向けて鼓舞しようと、あえて暴言を吐いたのかもしれない。

かつてJSL(日本サッカーリーグ)時代に、丸の内御三家のチームの監督が選手をなじったことで、元日本代表DFが自殺した。関西の有名高校では、30代の監督が前任者のように私生活を犠牲にしてまで指導することはできないと自殺した不幸な出来事もあった。Jリーグがスタートしてからも、関東のクラブのコーチが育成年代のコーチを叱り続けたことでユースの責任者が自殺したこともある。

いずれも許される行為ではないが、昨今はコンプライス違反に対する世間の視線が厳しくなっているだけに、曺監督のパワハラが事実と認定されればJリーグを揺るがしかねない社会的な問題ともなる。

湘南はクラブのホームページに12日、「一部報道について」と題して次のようなコメントを発表した。

「8月12日(月)発行のスポーツ報知と日刊スポーツにおきまして、湘南ベルマーレの監督である曺貴裁がパワーハラスメント行為を行った疑惑があるという内容の記事が掲載されております。クラブとしましては、記事内容の詳細を確認し、Jリーグと協議の上で、報道された内容に関する事実関係の調査を速やかに行ってまいります」と、即座に疑惑を否定せず、「Jリーグと協議の上」で事実関係の調査を行うことを表明した。

そして週末の17日、ホームの鳥栖戦の前の14時から平塚総合公園内 総合体育館 A会議室で、年4回開催される「クラブカンファレンス」を開催する。クラブとサポーターの意見交換の場で、カンファレンスには眞壁潔会長と水谷尚人社長が出席する。

当然、サポーターからは曺監督のパワハラ疑惑について質問が出ることが予想される。その場で眞壁会長と水谷社長がどのような見解を示すのか、今後の判断材料になることだろう。この件に関してはJリーグも同監督とクラブ側にヒアリング調査を行うようなので、推移を見守りたい。

【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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森保監督のエピソードとE-1選手権/六川亨の日本サッカー見聞録

昨日発表された、自民党の小泉進次郎・衆議院議員とフリーアナウンサーの滝川クリステルさんの、首相官邸からの婚約会見には多くの日本人が驚いたことだろう。小泉議員は7日の婚約発表について、6日の広島、9日の長崎での原爆記念日を避けるため7日になったと話していた。 広島と長崎と言えば、思い出すのが2年前の10月30日、東京五輪の日本代表監督に就任した森保一氏の就任会見だ。 「私は長崎出身で、広島で人生を一番長く過ごしてきました。2つの都市は世界で2カ所しかない被爆地です。平和都市で過ごしてきた部分を発信できれば幸いです」と語った。11月17日は広島で、12月28日は長崎でU-22日本代表のテストマッチが組まれている。これも平和への祈りを込めたマッチメイクに違いない。 折しも今日8月8日は、来夏の東京五輪サッカーで決勝戦に当たる。そして9日が閉会式。これも何かの縁と言えないだろうか。 ただ、当時の取材ノートを見返すと、森保監督就任についての報道は少ない。というのも、日本代表はアジア最終予選のホームゲームでオーストラリアから初勝利を奪ってロシアW杯出場を決めたものの、監督批判に対して試合後のヴァイッド・ハリルホジッチ監督は会見を拒否するなどJFA(日本サッカー協会)との関係にヒビが入り始めていたからだ。 10月31日にはフランス・リールでブラジルと、ベルギー・ブルージュでベルギー代表と対戦する代表選手23名が発表されたため、ファンの感心はフル代表に集まっていた。試合は1-3、0-1と連敗し、その後は国内で開催されたE-1選手権でも韓国に1-4と完敗するなどハリルホジッチ監督に対して逆風が強まることになる。 話を森保監督に戻すと、9月からはカタールW杯のアジア2次予選がスタートし、キリンチャレンジ杯などをはさみながら12月には韓国・釜山でのE-1アジア選手権が年内最後の試合となる。 今夏は久保建英をはじめ多くの若手選手が海外移籍を果たしたが、コパ・アメリカで招集した若手選手とロシアW杯組をどう融合させていくのかが注目される。対戦相手はミャンマー、モンゴル、タジキスタン、キルギスと最も組み合わせに恵まれただけに、森保監督もさまざまな試行錯誤ができるだろう。 そこでの課題と言えば、やはり大迫勇也のバックアッパーということになる。6月のキリンチャレンジ杯では久々に代表へ招集された永井謙佑がエルサルバドル戦で2ゴールを決めたが、期待の上田綺世や前田大然の再招集はあるのかどうか。 そして12月のE-1選手権は当然国内組での参加となるが、来年1月にタイで開催される東京五輪最終予選に向けて、フル代表ではなくU-22日本代表で臨むのかどうか。先週、味の素スタジアムのFC東京対C大阪戦を視察に訪れた関塚隆技術委員長に聞いたところ、「どうするのか、まだ話し合っていない」段階だという。 逆に関塚技術委員長は、悪化の一途をたどる日韓関係から大会を開催できるか危ぶんでいた。実際、今夏は川崎市のサッカーを通じた青少年交流事業について、韓国・富川(プチョン)市から実施延期の申し出を受けただけでなく、文化的な交流会も中止が相次いでいる。それだけ今回の対立は深刻だ。 「スポーツと政治は関係ない」とよく言われるが、ことサッカーにおいて、それは当てはまらない。前回韓国で開催された2013年のE-1選手権でアルベルト・ザッケローニ監督率いる日本は初優勝を飾ったが、7月28日の日本対韓国戦(2-1で日本の勝利)では韓国側の応援団が政治的なメッセージを掲げたことで日韓の政府間で問題になったことがある。 試合前、韓国側応援団は「歴史を忘れた民族に未来はない」とハングルで大書された横断幕を掲げた。そして試合開始直前には1909年に初代韓国統監であった伊藤博文元首相を暗殺した安重根と、文禄・慶長の役で豊臣秀吉軍を破った海軍の李舜臣将軍の巨大な肖像画を描いた幕を観客席に広げた。2人とも韓国では、日本に反逆した数少ないヒーローとされている。 いずれも前半終了後に強制撤去されたが、サッカーに限らず日韓の間には難しい問題が山積しているのは事実だろう。森保監督にすれば、できるだけ多く試合を重ねたいところだろうが、果たしてE-1選手権は無事に開催されるのか。こちらも気になるところである。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.08.08 16:00 Thu
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遠藤保仁の偉大な記録/六川亨の日本サッカーの歩み

先週末は何かと話題の多いサッカー界だった。8月4日のJ1リーグでは、2011年に心筋梗塞で亡くなった松田直樹さん(享年34歳)の命日であり、彼の所属した松本が強敵・川崎Fと0-0のドローを演じた。通算4試合目にして初の勝点獲得である。 G大阪からオランダ1部リーグのトゥエンテに移籍した中村敬斗は、開幕戦で古豪のPSVアイントホーフェンからゴールを奪い1-1のドローに貢献した。驚いたのは札幌の小野伸二が琉球への移籍が決まったことだ。今後はカズや中村俊輔のいる横浜FC戦(8月17日)でのデビューを目指すそうだ。 そんなトピックスのなかで注目したいのが、8月2日の神戸戦で公式戦通算1000試合出場を果たした遠藤保仁だ。鹿児島実業高校を卒業して横浜F(フリューゲルス)に入団すると、1年目の開幕戦、対横浜M(マリノス)戦でデビューを飾る。ストライカーではないし、小野のような天才肌のパサーでもない遠藤だが、長短のパスを緩急織り交ぜてゲームを組み立てる才能を当時の監督カルロス・レシャックは見抜いていたのだろう。 その遠藤が輝いたのは、小野らと出場した1999年のワールドユース(現U-20W杯)だ。当初は稲本潤一の控えだったが、稲本の負傷により1ボランチとしてチームを支え、初の準優勝に貢献した。 ワールドユースで戦ったチームメイトで今も現役なのは小野と、稲本(相模原)、高原直泰(沖縄)の3人しかいない。海外に目を向けても決勝戦で戦ったスペインのシャビ、準決勝で対戦したウルグアイのディエゴ・フォルラン、MVPに輝いたマリのセイドゥ・ケイタ(マリ人として初めてバルセロナでプレー)はすでに引退している。このことからも、遠藤はいかに息の長い選手かがわかる。 日本代表には2002年にジーコ監督のよって初招集され、2004年のアジアカップ優勝に貢献したが2006年のドイツW杯は中田英寿や福西崇史、小笠原満男、稲本らボランチは激戦区だったため、フィールドプレーヤーで唯一ピッチに立てなかった。 遠藤といえばFKとPKの名手であり、特に「ころころPK」は代名詞と言える。2007年のアジアカップの時だ。オシム監督は練習後にチーム全員でPKの特訓をした。PKを外した選手はピッチを1周する決まりだったが、3人だけ罰走をしなかった選手がいた。それは遠藤と中村俊、そして駒野友一の3人だった。 2010年の南アW杯で日本はパラグアイとのラウンド16をPK戦で敗れた。5人目のキッカー駒野がクロスバーに当ててしまったが、PKの名手がコントロールできなかったのは、120分間サイドを上下動して疲れがたまっていたからではないかと当時は思ったものだ。 遠藤の記録として、J1リーグ出場621試合は、昨シーズンで引退した楢崎正剛の631試合に次ぐ史上2位の記録で、フィールドプレーヤーとしてはトップの数字だ。あと10試合で楢崎と並ぶが、記録更新は呉宰碩(オ・ジェソク)や今野泰幸、米倉恒貴らベテランを放出して若返りを図る宮本恒靖監督が、どこまで遠藤に出場機会を与えるかどうかだろう。 日本代表としては国際Aマッチに152試合出場している。これは2位の井原正巳を30試合上回る歴代1位の記録だ。この記録を破る可能性があるのは18歳で代表入りした久保建英らごく限られた選手になるだろう。W杯は3大会連続、アジアカップは4大会連続の出場も遠藤ならではの記録だ。 偉大なるレジェンドがどこまで記録を伸ばし、記憶に残るプレーを披露するか。これもまたJリーグの楽しみの1つである。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.08.05 18:00 Mon
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鹿島の経営権を譲渡に一抹の不安/六川亨の日本サッカー見聞録

一番驚いたのは、他ならぬ鹿島のファン・サポーターではないだろうか。7月30日、J1リーグで最多の19タイトルを獲得している鹿島が、個人が不要になった日用品をインターネット上で売買するフリーマーケットアプリ大手のメルカリに、15億8千万円で身売りした。 鹿島は前身の住友金属サッカー部が母体となるチームで、1947年創部と72年の歴史を誇る。ただ、JSL(日本サッカーリーグ)時代は2部と1部を行き来する地方のマイナークラブだった。JSL時代、現在の春秋シーズンから秋春シーズンに以降したことがあったが、それは住金が最北のチームだったからでもある。 転機となったのはJリーグの創設で、サッカー専用のカシマスタジアムを建設したことを、当時のプロ化検討委員会で加藤久氏が高く評価。「選手獲得に10億使うクラブはあるが、スタジアム建設に100億使うクラブは鹿島だけ」という説明に委員会のメンバーは納得し、JSL時代はこれといった実績のない鹿島を「オリジナル10」として認めた。 その後は鉄鋼不況もあり、2012年に住金と新日鉄(JSLにも参画していた)が合併し、新日鉄住金(現日本製鉄)が筆頭株主としてクラブを支えてきたが、チームは数々のタイトルを獲得した。 住金も新日鉄も、個人消費者を相手にしたビジネスではなく、企業間取引が専門のため、クラブを持つメリットは少ない。そもそも住金がJリーグ参入に手を上げたのは、地元住民に娯楽を与え、定住率を高めるのが狙いだった。 会社は茨城県鹿島市にあるものの、社員の多くは東京駅からバスで往復通勤していた。Jリーグ誕生時は、「暴走族が街から消え、若者はスタジアムのゴール裏で旗を振ってエネルギーを発散するようになった」という逸話もある。 そんな鹿島が、消費者と直接向き合うメルカリに経営権を譲ったのは、鹿島ブランドを生かしてグッズ販売の拡充やファン層の拡大を狙ってのことだろう。 こうした流れは今に始まったことではない。神戸はIT大手の楽天が経営権を獲得し、過去にはイルハン・マンスズ、最近ではイニエスタとビジャら三木谷会長のポケットマネーで大物外国人選手を獲得している。 他にも通信販売大手のジャパネットたかたは長崎、IT大手のサイバーエージェントは町田、フィットネスクラブを運営するRIZAP(ライザップ)は湘南、東京Vはゲーム会社のアカツキと経営権の譲渡は年々増加傾向にあるし、FC東京の胸スポンサー「XFLAG」もゲーム配信会社ミクシィの1部門だ。 紙媒体は衰退する一方で、テレビのコマーシャルを始め、スマホの広告もゲーム会社が増えているだけに、これも「時代の流れ」なのかもしれない。 こうした流れにJリーグの村井満チェアマンは「BtoC(消費者向け)の会社が持っている知見はクラブにとって貴重」と歓迎する。 しかし、その弊害も予見しておく必要があるだろう。 Jリーグの創設に尽力し、元Jリーグ専務理事の木之本興三氏(古河出身。故人)は「三菱、日立、古河といった御三家は、人材育成が会社の発展には欠かせないという社風があった。それがサッカー部にも当てはまり、選手・監督の育成を長いスパンで考えていた」と話していた。 そして京都のGMと監督を務めた加藤久氏は「日本の基幹産業が母体のクラブはチーム強化に時間がかかることを理解しています。しかしIT関連などの新興企業は、外国人選手など投資した額に見合う成績を即座に求めます」と、投資=リターンがノルマになるクラブ運営の難しさを話していた。 監督交代と外国籍選手の入れ替えが頻繁な神戸は、加藤氏の懸念が当てはまっているのかもしれない。巨額の先行投資をした神戸には、是非とも結果を残して欲しいところだが、今後は鹿島も含めて経営権を譲渡したクラブの“その後”に注視したい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.08.01 16:30 Thu
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疑惑のジャッジの舞台裏/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は7月18日、今年で2回目となるレフェリーブリーフィングを実施した。今回のブリーフィングまで、J1とJ2、J3にルヴァン杯のグループステージ、そして天皇杯を含めて137試合でJクラブと意見交換(疑問の残る試合について検証すること)を実施し、そのうち27パーセントがミスジャッジであることを明かした。 その上で小川佳実審判委員長は今月13日の横浜FM対浦和戦での誤審について、17日に審判委員会を開いて事情説明をしているので、今日は議題から省くと冒頭の挨拶で語った。 疑惑のシーンは、ワンツーで左サイドを突破した遠藤のクロスに、ファーサイドにいたFW仲川とDF宇賀神がもつれながら決めたゴールである。松尾一主審はゴールを認めたものの、浦和の抗議を受けて審判団は協議の上で仲川のオフサイドによりノーゴールとジャッジを覆した しかし9分間の協議の末、再び横浜FMのゴールと認めたのだった。 その経緯を小川審判委員長は、「ゴール直後、第1副審と第4審判がクラブ(横浜FM)の運営から入手した情報(得点者が誰か)をもとに、判定をオフサイドに変更した。主審は、その後審判団と協議する中で、本来得てはいけない審判団以外の情報だと認識し、再びゴールに判定を戻した。両チームの監督に事情説明などをし、試合を再開させた」と説明した。 要するに、本来ジャッジは4人の審判団で下さなければならない。にもかかわらずピッチ外から情報を経てオフサイドと判定を覆したことは、競技規則上、許されることではない。そこで仲川のオフサイドと認めつつも、元の判定であるゴールに戻さざるを得なかったわけだ。 ちなみに浦和の選手交代はプレーに直接関係ないので、次のプレーを再開する前であれば判定を変えることはできるそうだ。 ちなみにレフェリーブリーフィングでは「オフサイド」のテーマで問題のシーンを再現し、仲川はオフサイドポジションにいて、なおかつ手で押し込んでいた。 そして問題はここからである。松尾主審は横浜FMのポステコグルー監督と浦和の大槻監督の2人と両チームの選手に対し「審判が持っている情報で変えたのではなく、変えるきっかけになった情報が外部からのものだと分かったので、申し訳ないが、最初の得点を認めた判断に戻させてください」と説明したという。だから選手らも納得してプレーを再開させたのだろう。 ところが試合後に槙野が「運営が決めること」とメディアに話したことで混乱が広がった。素朴な疑問としてジャッジは審判団が決めるのが常識だ。しかし切り取られた発言で、あたかも決めたのは「運営」との誤解を招いた。 試合後の両チームの監督も、事情が事情だけに59分のシーンについては「ノーコメント」を貫いた。不確かな情報がメディアを通じて拡散された結果、さらなる疑惑を招いたことは否めない。 ミスジャッジの被害者は両チームの選手と監督だが、観戦していたファン・サポーターも事情を知らされていないだけに「?」のジャッジに混乱したことだろう。 大相撲のように場内アナウンスで説明することは難しいかもしれないが、VAR導入までに何らかの策を審判委員会は講ずるべきだろう。 この日、説明を行った上川氏は追加副審がいたとしても、その位置では「選手の背中しか見えないため正確なジャッジは下せなかっただろう。副審からも背中越しのプレーなので正確なジャッジを下せたかどうか。もう少し主審がペナルティエリアの角あたりに移動していれば(仲川と宇賀神の競り合いを)見えていたかもしれない」と述べていた。 ちなみに審判委員会は誤審の松尾主審には1か月の割り当て停止、外部から情報を得た第1副審の相楽亨氏と第4審判の大坪博和氏に1か月の資格停止、第2副審の田尻智計氏は1試合の割り当て停止の処分を科した。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.07.18 19:10 Thu
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中島翔哉の恩師が語るドリブラーが育たない理由/六川亨の日本サッカー見聞録

中島翔哉のポルト移籍は今週月曜のコラムでも触れた。彼には新天地で活躍して欲しいところだが、中島のポルト移籍に驚いている人がいる。J2富山時代に監督として指導し、FC東京でもコーチ・監督として練習後のシュート練習に付き合った安間貴義氏だ。 開口一番、「CL(チャンピオンズリーグ)でも上位に勝ち進める可能性のあるチームですよ」と驚きつつ、「本音を言えばポルトではなくベンフィカに行って欲しかった」と残念がった。 安間氏は今年で50歳を迎える。サッカーファンとしては“オールド”の部類に入るだろう。その年代のサッカー関係者からすれば、ポルトは“新興チーム”であり、やはりポルトガルといえば“黒豹”のニックネームで親しまれ、1966年イングランドW杯で得点王となったエウゼビオ擁するベンフィカ・リスボンの方が親しみやすいからだ。 そんな安間氏が中島や、FC東京U-23監督時代に指導した久保建英の凄さについて、次のように説明してくれた。 「普通、ドリブラーに対しての守備は、顔が上を向いている状態、いわゆるヘッドアップしているときは周囲の状況を把握しているためアタックに行くなと言います。そしてボールを見ているとき、ヘッドダウンしているときは視野も狭いためアタックしろと言います。しかしショウヤやタケフサら天性のドリブラーは、ヘッドダウンしていても周囲にいる敵の気配を敏感に感じられるので対処できるのです」 だからこそ、正対するマーカーだけでなくサイドからアタックに来たDFなど3人の敵に囲まれても切り抜けることができるという。 そして日本人指導者の問題点も指摘した。中島のような“相手を剥がせる”ドリブラーは、日本代表では1980年代に活躍した金田喜稔氏や木村和司(元々は右ウイングだった)以降、なかなかいなかった。 一時期は静岡学園や野洲高校がドリブルにこだわる指導で名選手を輩出し、乾貴士がロシアW杯で活躍したのは記憶に新しいところだろう。 安間氏いわく、「ドリブラーを養成するには、指導者がドリブラーとしての経験がないと、なかなか教えられません」と断言する。 そこで現役時代にドリブラーではなかった指導者は、「早くパスをつなぐことを奨励する傾向が強い」(安間氏)そうだ。 ここらあたり、つい最近まで“個で勝負”するのではなく、“組織で勝負”する日本サッカーの弊害かもしれない。そして、それに輪を掛けたのがバルセロナのポジションセッション・スタイルではないだろうか。 バルサの「チキタカ」がもてはやされた時代もあったが、それでもメッシはドリブル突破で状況を打開したし、高速ドリブルのベイルもレアルの大きな武器だ。 中島の活躍により“ドリブラー”の重要性にスポットライトが浴び、第2第3の中島を育成しようとする指導者が現れるのかどうか。今度機会があったら関塚隆技術委員長に育成について聞いてみたいと思う。 2019.07.11 18:00 Thu
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