民主主義は可能か?

民主主義はdemocracyの訳語としても日本語の単語自体としても奇妙な言葉で、そのうちには、というのはdemocracy自体への理解がすすめばなくなる単語ではないかとおもうが、この記事では便宜的にdemocracyの訳語として使う。

2016年は、民主主義にとって劃期的な年だった。
悪い意味です。

いくらカネモチの味方で、倫理意識ゼロとみなされ、好戦的でありすぎるといっても本来ならば負けるはずのないヒラリー・クリントンが敗退して、あろうことか、ドナルド・トランプが大統領になってしまった。

当時、自分のまわりのアメリカ人たち、だいたいのおおきなくくりでいうと、これはまたこれで、誰が観てもいろいろな意見がありそうな問題種族の、ハーバード族、ほかの国や大学の出身であっても、すくなくともHBS(ハーバード・ビジネススクール)かHLS(ハーバード・ロースクール)出身のアメリカではエリートとみなされる人々の公約数的な意見は

「ヒラリーなら4年の我慢ですむがトランプでは、この次の大統領選挙があるかどうかわからない」だったようにおぼえているが、そういっていた彼ら自身、当のヒラリーとトランプが対決している選挙自体が、すでに旧来の「大統領選挙」ではなくなっていたことには気が付いていなかった。

気が付いていたのはアメリカを横断して反対側の、西海岸の、それもシリコンバレーやサンフランシスコではなくて南カリフォルニアのIT族の友だちたちのほうで、
かなり早い段階から、「これはたいへんなことになった」と述べていた。

悪名高いSCL Groupから派生してCambridge Analyticaが誕生したのは、たしか2013年のことではないかとおもうが、名前が会話にあらわれるようになったのは2014年頃だったのではないかとおもいます。
2015年になるとBreitbart NewsやTed Cruzの名前と関連づけされて度々口にされるようになっていった。

政治的なトンマでしかないはずだったTed Cruzが有力な共和党大統領候補になることによって「なにかがおかしい」と東部のひとびとが考え始めたころには、西海岸のIT族は、ほぼなにが起こっているか把握していて、気が早い人はさっさと緊急待避用の家をニュージーランドのクイーンズタウンに買ったりしていた。

SCL Groupの経営思想というか企業としての理念は、つまりこういうことです。

例えばアメリカが南米の社会主義政権を倒そうと考える。
この場合、ふたつのやりかたがあって、現地の反体制集団に武器と顧問を送り込んで戦争によって政権を打倒する。

もうひとつは、「情報戦」によって社会を少なくとも混乱させて政権崩壊にもちこむ。

伝統的には例えばCIAを使っていた。
SCLはビッグデータを使えば良いのさ、という思想をもった。

高橋太郎なら高橋太郎という人が毎日暮らしていくために、多分、このひとはグーグルで検索して、好きな本の書評を探す、紀ノ国屋に在庫があるのを発見して、自動改札を使って地下鉄に乗る。

コーヒーが飲みたくなったので、いつも選ぶラテを選んで、サイズはSで、クレジットカードでピッと支払いをする。

少しお腹がすいたのでコンビニストアに立ち寄って、鮭のおにぎり2個と小ぶりな鶏の唐揚げが入った袋を買う。

このグーグルはもちろん、自動改札、コーヒー屋でラテを買ったこと、サイズがSであること、あるいはコンビニのPOSのDBには、おにぎり2個と唐揚げを買ったこと、どのメンバーカードを使ったか、そのメンバーカードに紐付けされたレンタルビデオで、どんな映画を借りているか、あれっ?このひと去年の5月にはクレジットカードをいちど止められているね、ということに至るまで、すべてネットを通じてデータベースのデータとして入っていくが、そういう個別データを使ったマーケティング戦略を軍事的な兵器として使えるように洗練させればいいのではないか、というのがSCL Groupがもった思想でした。
そして、アフリカ諸国や南米諸国を対象に、たいへんな成功をおさめた。

Cambridge Analyticaは、この手法を自由社会の根幹をなす選挙に使えばいいのではないかと考えた。

具体的には、ここでは詳しい説明を省くが、アメリカを陰から支配する熱心な野望をもつMercer一族が、多分、娘のRebekah Mercerの提案でおおきく肩入れしたのだと考えられている。

つまり、簡単にいえば、Cambridge Analyticaはビッグデータを洗練されたIT手法でもちいれば民主主義そのものを傀儡化して支配できるという確信をもったわけで、この方法の実効性を見抜いたRebekah Mercerが派遣したSteve Bannonの助言のもとにCambridge Analyticaは見事にアメリカ大統領選挙というシステムそのものを骨抜きにしてトランプをほとんど無理矢理に大統領の座につけてしまう。

あとはたくさんのドキュメンタリやノンフィクション本が出ているので、評判がいいものを探して読んでいけばいいとおもうが、
それがどのくらいの規模だったかを示すために数字をあげると、
Cambridge Analyticaはアメリカ民主主義を破壊するために使った主要な「兵器」だったFacebookに選挙のピーク時の数ヶ月間、一日に一億円以上の広告費をつぎこんでいる。

Project Alamoと名付けられたこの「見えない内戦」はデジタル側の完勝で、どれほど無能な人間を看板に立てても、投票時の選択に有効なイメージをつくりだし、現実そのものをでっちあげることによって自分たちが操れる指導者をうむだせることをProject Alamoは実証してみせた。

これほど有効で手に入りやすい兵器をあちこちで社会を混乱させ分断させて自分たちの恣意のとおりに支配しようとする人間たちが見逃すわけはなくて、トリニダードトバゴでは黒人の若い層に「選挙なんて行ってもムダだと働きかけてインド系候補が圧勝するようにもっていった。東欧の至る所で選挙をコントロールした。最近ならばブラジルやミャンマーで起きていることは、Cambridge Analyticaのコピーキャットによっていることがよく知られている。

通常はその国の大手の広告代理店やマーケティング会社によって行われる、日本なら日本の、一国の民主主義の「乗っ取り」は、その国の国民のあいだに、ヘイト、恐怖を煽って国民を分断することによって行われる。

政権を愛しましょう、というような単純な手法に終始するわけはなくて、例えばよく使われる手法のうち初歩的なものをあげると、有力な反対勢力からポピュリストを選んで、反対勢力をそのひとりの人間に集めて、初めから調べ上げてある彼女もしくは彼のアキレス腱を絶つことによって反対勢力を一挙に壊滅させる。

あるいは、大統領選挙ならば、民主党なら民主党の候補を乱立させることによって、共和党候補を安全水域から大統領の座につかせる。

どのような方法によるとしても、考えてみれば古代ギリシャの時代から知られてきた民主制のウィークポイントをビッグデータと呼ばれるものを使ってピンポイントで攻撃破壊するわけで、いまのところ、伝統民主主義の側からこれに対抗して民主主義を生き延びさせる有効な手段はないようです。

現時点で6〜900000項目弱といわれる個人を定義するデータは、やがてゼロがひとつ増えるに違いないが、NYCのParsons School of Design準教授David Carrollが連合王国で起こした「自分についてのデータを公開しろ」というCambridge Analyticaに対する訴訟は、Cambridge Analyticaが開示要求を拒否したことに対して有罪判決がくだされたがデータそのものは開示されないまま終わった。

論理的に考えてみればわかるが、ビッグデータを使う解析マーケティングそのものの本質を破壊してしまうことになるので、
多分、将来も、ある人間についてのデータが、その人自身に対して開示されることはないでしょう。

こうしたテクノロジーの揺籃期には同種の(と言っても遙かに素朴なものだったが)手法を用いたマーケティングがone-to-oneと呼ばれていたのをおぼえている人もいるとおもいます。
20世紀の終わりに、この手法を用いた有名な失敗例として、アメリカ某社の生理用品のマーケティングが知られている。

顧客のPOSデータから生理のサイクルを割り出したこの会社は、次の生理の時期が近付くと、「そろそろ生理が来るころですね。次の生理にも弊社の生理用品を!」とemailをだして、顧客を激怒させた。

いまになってみると、笑い話のようでなくもないこの頃の原始的なテクノロジーが、遙かに複雑で賢いシステムに育って、ついに民主主義を破壊する怪物になった。

最初期のパーソナルコンピュータのひとつApple IIを生みだしたスティーブ・ウォズニアックの夢は、どんな圧政下にあっても、個人がレジスタンスの武器と出来る一個のプライベートに所持できる小型コンピュータと、それをフックさせるオンラインネットワークだった。

その夢は実現して、いまはiPhoneと4Gネットワークとして世界をおおっている。

コンピュータコミュニティはもちろん、いまはジャーナリズムにおいても逮捕を免れているだけで自覚的に犯罪者であると理解されているMark Zukerberg, Sheryl SandbergはもちろんのことLarry Page, Jack Dorseyたちの世代は、いまでも「個々の人間を結びつけ情報を瞬時に共有して、これまでに存在しなかった娯楽を提供する」往時のインターネットの楽しい夢のなかでキャリアを始めたが、彼らが育てたインターネットという妖精は、彼らの理解力を遙かに越えた人間を支配する怪物に育ってしまった。

最近グーグル本社が「Don’t be evil」という有名なサインを撤去したというニュースがあったが、彼ら自身、もう現実についていけなくなっていることを象徴している。

テクノロジーが人間の理解を越えてしまうといういわば予期されていた事態が、民主主義という、そもそもなぜこの不完全きわまりないシステムが人間にとって最適な仕組みとして機能してきたか理解不能なシステムの破壊から始まったことには理由があるが、しかし、それならば民主主義に代わる社会の仕組みが見つかるのか、そもそも個人主義自体が回復できるものなのか、テクノロジープラットフォームの下を囂々と流れるデータの奔流の音を聴きながら、人間は途方にくれることになった。

それでも、民主主義は可能なのだろうか?

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1 Response to 民主主義は可能か?

  1. Koichi Oda says:

    世界同時多発的な政治的雪崩の背景は、そういうこと、個人ごとテイラーした投票行動の制御ということなんですね。選挙時の情報操作に弱いのは日常的な政治情報の理解が脆弱だからということはないでしょうか。平時からどっぷり情報操作されてる気もしますが、時間もあるので丁寧にほころびを見つけてそこから探索的に懐疑的に理解していければ、あるいは。日本では情報リテラシーや人権理解、市民意識が弱いので個人の基礎体力的に難しいのですが。衆愚に付け込まれたということなんでしょうか。

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