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<焼け跡の孤児たち>(中) 「駅の子」と恩師

戦争に関するイベントに参加した子どもたちに声をかける小倉勇さん=京都市伏見区で

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 終戦後、東京・上野や名古屋、大阪など各地の主要駅には、そこで寝泊まりする子どもたちがいた。いわゆる「駅の子」。福井県敦賀市出身の小倉勇さん(87)=京都市=はその一人だ。

 一九四五年七月十二日夜の敦賀空襲。市内の民家の約七割が焼失し、百人以上が亡くなった。当時十三歳だった小倉さんは助かったが、母は自宅近くの防火水槽の中で亡くなっていた。「ショックで涙も出なかった」という。

 父も翌年二月に病死。親戚宅に身を寄せたが、食料事情が悪い中、しばらくするとつらくあたられるようになった。「何でおまえは生まれてきたのかとののしられた」。半年でその家を出て列車に飛び乗って福井駅にたどり着いた。

 待合室で一歳下の「かめちゃん」と「山ちゃん」という少年たちに出会った。ともに孤児。三人で行動を共にした。福井から武生(現福井県越前市)に向かった。「武生は小さい町で、ぼろぼろの服を着てた僕らは目立つんですよ。警察に通報されたらかなわんと大きな町へ行こうとなった。大阪は大都会だと学校で習っていたんで」

 大阪、神戸、東京・上野などを転々とした。乗客に紛れてさっと改札を通る。「駅員は見て見ぬふりをしてくれた。『情』があったんでしょうか」。時には三人で盗みも働いた。

 山ちゃんは泥棒の達人。どんな窓でも開けた。「ねずみ小僧次郎吉のようだった」。小倉さんは見張り役。「悪い事とは分かっていた。でも、そうしないと生きられなかった」。金を盗み、稼ぎが多い時は闇市で鯨肉入りのカレーライスなどを食べた。

 仲間のかめちゃんは出会って一年後の秋、列車に身を投げて自殺した。世間からさげすまれ、孤独感を強めたことが原因だったとみる。

小倉さんが保護されたという京都駅(1948年10月撮影)

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 二年余に及んだ路上生活は、京都駅で終わった。「狩り込み」と呼ばれる一斉収容で保護されたのだ。京都市の児童保護施設「伏見寮」に入り、生涯の恩師となる寮長と出会った。

 寮長は銭湯に連れて行き背中を流してくれた。小倉さんは路上生活の中で栄養失調から緑内障になり、左目を失明。皮膚病にもかかっていた。「自分に触れてくれる大人なんて誰もいなかった。背中を洗ってもらい、まじめになろうと決意した」と感謝する。

 その後は盲学校に進学し、マッサージ師となって生計を立てた。四年前から、孤児だった体験を講演などで語る。「戦争によって親を奪われた。戦争は誰がしたんか。大人たちです。二度と僕たちのような悲しい思いを子どもにさせてはいけない。これは大人の責任です」と訴える。

 伏見寮で子どもたちが歌った歌がある。タイトルは「伏見寮の夢」。講演などで今もよく歌う。

 「ワッと泣きたい時がある

 父さん 母さん 会いたいよ

 ゆうべ見た夢 母さんの

 だっこしている ぼくの夢」

 路上生活は、みんなが飢えていた。食べ物も着るものもなかった。でも「本当にほしかったのは、ぬくもりなんです」。

 <戦争孤児と児童福祉法> 戦争孤児らの生活を保障する目的で、子供の福祉と権利擁護を明文化した児童福祉法が1947年12月に制定された。それまで民間の団体などが運営していた「孤児院」が同法に基づく養護施設となり、児童相談所も設置された。

 

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