一面<焼け跡の孤児たち>(上) 74年前、駅に子があふれ
リニア中央新幹線の開通に向けて、開発が著しい名古屋駅。西口を出たところで名古屋市緑区の後藤幸夫さん(84)は立ち止まり、74年前の少年時代に思いをはせた。「このあたりに座っていると、通りがかりに『これ食べよ』とくれる人もいたでね」 後藤さんは戦争孤児。名古屋駅やその周辺の店の軒先で寝泊まりすることもあった。終戦直後は同じような子が駅にあふれ、市史には「100人を数えた」と記されている。3年たった1948(昭和23)年でも、一斉取り締まり、いわゆる「狩り込み」で4~6月に284人が保護されたと市警察季報にある。 戦争で親と家を失った子どもたちはその後、どのように生きたのか。「戦争孤児」の著者で立命館宇治中学・高校の本庄豊教諭(64)は「孤児の体験を記録する活動が各地で進むが、中部地方での取り組みはほとんどない」と話す。 名古屋駅にいた後藤さんが今回初めて取材に応じ、その一端を語ってくれた。
◆闇市が庭、神社で寝るJR名古屋駅(名古屋市中村区)西側の「駅西」地区。焼け跡に闇市ができた。中村区誌によると、店は600軒以上。駅で降りて食料などを求めに来る人たちでごった返していた。 後藤幸夫さん(84)の家はこの地区の北にあり、1945年3月19日、名古屋駅の一部も焼いた空襲で母を亡くした。国民学校(現在の小学校)の4年生だった。義父は母の再婚相手で60歳を超えていて、バラックを建てて住み始めたが安らぎを感じられず、3つ下の弟と駅や近くの神社での寝泊まりを繰り返した。 「駅へ来たらにぎやか。いろんなことが起きるもんでおもしろいというか、やじ馬根性もあって」。1枚しかない破れたシャツを着て西口に座っていると、買い物客らがドーナツのような菓子を恵んでくれることがあった。「駅にいた子の中には人のかばんを持って行ったりするやつもおった。でも自分と弟は、そういうのとは付き合わなんだ」と振り返る。義父が育てた芋などで、飢えはしのげたからだ。 でも、ただで市電には乗った。駅の東口からは市電が走り、乗り場や線路の脇に未使用の切符が落ちていた。「その切符を拾うんだ」 10歳と7歳。「弟につらい思いをさせたらいかん」といつも連れだったが、約半年たち、見かねた当時の町内会長に「弟と一緒にどうだ」と言われ、入学したのが戦争孤児の受け入れ施設だった。 もともと疎開児童を受け入れていた愛知県岡崎市の「渭信(いしん)寺」の境内に、名古屋市が「本宿郊外学園」をつくっていた。多いときには150人の小中学生らが暮らし、学んだ。「やっときれいな所で寝られる」。義父がほどなく亡くなり頼れる人もいなくなった。学園が安心を与えてくれた。 前住職、日比野道英(どうえい)さん(83)は当時、学園の子どもとともに食事をした。「寺の前の小川で沢ガニをつかまえて、ゆでてみんなで食べた。寮母さんも境内の中の建物に住み、母親代わりを務めていました」 遠足で、名古屋の東山動物園へ行ったときのこと。家族連れを見て後藤さんは「寂しいなと思った。でもすぐ気持ちを切り替えるんだ」と懐かしむ。 15歳で学園卒業後、オートバイのタイヤなどを手がける名古屋市のメーカーに就職。夜間高校も卒業した。「孤児だったから気持ちは強い。戦争の時の苦労に比べたら、会社の苦労なんてしれてた」。会社では工場長まで勤め上げた。 今は子ども3人、孫4人、ひ孫も2人いる。若い人たちに自分の経験を通じて伝えられることは「失敗を恐れるな」だ。「僕ら孤児は最初から失敗してたようなもん。恐れずに前へ進む気持ちを失わないで」と、駅西の雑踏でつぶやいた。 ◇ 先の戦争では、たくさんの子どもたちが親を亡くした。焼け跡に残された孤児たちの証言から戦争を振り返る。 <戦争孤児> 1948年の国の調査によると「数え年20歳以下」の孤児の総数は全国(沖縄を除く)で12万3511人。この中には戦災が原因ではなく、両親が病死するなどの「一般孤児」も含まれる。ただ、戦中戦後の混乱による食料不足などもあり、一般孤児も戦争孤児とする研究者もいる。愛知県4533人(全国5番目)、岐阜県4365人(同7番目)など中部地方でも多くの孤児が生まれた。 今、あなたにオススメ Recommended by PR情報
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