2020年の東京五輪・パラリンピックが日本の医療界に波紋を投げかけている。大会期間中に選手や観客の診療にあたる千人超の医師・看護師について、無報酬とすることを組織委員会が決めたためだ。これまで大規模なスポーツイベントは、自治体との取り決めで有償としてきた。ねじれ現象についてどう考えるのか。五輪開催地にあたる東京都医師会の猪口正孝副会長に聞いた。
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――五輪・パラリンピックの医療ボランティアが無償となったことについて、どう受け止めていますか。
「医師会として大会を盛り上げたいし、国をあげてそういう方向に向かっているなかで、お金の問題をあれこれ言うことは適切ではありません。ただ大会が終わった後には、きちんと検証したいと考えています。こうした国際規模の大会が日本であったとき、いつも医療界におんぶにだっこで、本来出るべきお金が出ないのは困るので、きちんと予算に組んでくださいというお願いはしていくべきだと思います」
――五輪・パラも本来は有償であるべきだということですか。
「一般的に、ほかで代替のきかない特別な技能を持っている人で、それがイベントの運営上絶対に必要であれば、有償とすべきだと思います。これまでも国民体育大会や東京マラソン、国際的なスポーツイベントの医療活動は、自治体との取り決めで有償でやってきました。災害救助も法律で有償と決まっています」
「もっとも医師・看護師が(それぞれの実力に見合った)納得のいく金額をもらっているわけではありません。もとは税金ですから、自治体からこれだけしか出せないといわれれば、我々は『しょうがないですね、やりましょう』となります。奉仕的な精神で非常に抑えた価格でやっているわけです。その意味では、いままでの歴史の流れから逸脱しない金額が適正だと思います」
■「大会のバッジをもらえれば十分」
――医療現場は人手が足りないといわれます。五輪・パラに割く余裕はあるのですか。
「東京都内には4万人強の医師がいて、そのうちの2割は(五輪で必要な)救急医療に対応できるでしょうから、医療が崩壊するようなことはないでしょう。大会期間中は医師・看護師もアドレナリンが出て、踏ん張りがきくと思います。ただ普段から疲れている人たちなので、終わってしばらくしてから目に見えないところで影響は出てくると思います」
「疲労感に見合う金銭的なものが医療界に入ってこない影響も大きいです。人件費に換算すると、数億円にはなると思います。医師・看護師は養成されて数的にある程度確保できていますが、(医療界にとどまらず)ヘルスケア全体でみると介護士や介護助手などものすごく人が必要になっていて、そういうところに回るお金が減るという意味では、ものすごく大きな話です」
――医師・看護師を集める手法についてはどう考えますか。組織委は個人の希望者を募るのではなく、大規模な病院ごとに折衝して、まとめて派遣してもらう形をとりました。
「スムーズな診療という意味では(互いによく知っているメンバーの方がやりやすいので)よく理解できます。ただ病院が意気に感じて引き受けて、希望者だけで埋まらない場合、『足りないんだよなあ、行ってくれないかなあ』と頼み込んだり、出張扱いにして給料を払ったりすれば、医師会として問題にせざるを得ません。我々も組織委から依頼されて、(会員のなかから)46人の医師、92人の看護師を派遣します。募集の際には『やりたい人はどうぞ』としか言っていないので、そういうことはないと思います」
――無償であることに、当事者である医師・看護師は不満を持っているのですか。
「何人かにインタビューしてみました。すると、みな『喜んでいくんだから、いいじゃないですか』と言うのです。報酬についても『大会のバッジをもらえればそれで十分です』と。『邪魔しないでほしい』と言う人までいます。まるで五輪という魔法にかかっているようです。医師会として、(無償は)いい話とはいえませんが、『やりたい』という人に『やるな』と言うわけにもいきません」
――これまでも草の根のイベントでは、無償で診療することがあったのではないですか。
「全体は把握できてきませんが、経験値からいえばその通りです。たとえば小中学校の運動会に、医師が保護者として参加することはよくあると思います。もともと医師・看護師は奉仕の精神を持っていて、人道的だったり、世の中のためになることだったりするなら、すすんでお手伝いしたいと思っているはずです」
――では、どんなイベントが有償になるのですか。
「大規模イベントはほとんどの場合、興行的です。つまり市場経済のなかで、利益を生むことを前提としています。マラソン大会を例にとれば、一般の参加ランナーからお金をとる一方、招待ランナーにはお金を払っていますよね。なかには、赤字を税金で補てんしている大会もありますが、それは地域おこしなど目に見えない利益を得ようとしているわけで、その地域が大会をやめればすむ話です。我々の専門能力をただで使いながら継続性があるというのは、ちょっとおかしな話だと思います」
「イベントを規模ごとにピラミッド構造にたとえると、中間から下が無償で、それより上の大規模イベントが有償です。頂点にくるはずの五輪は、世の中のためになりたいという医療の精神性とぴたっとはまってしまった感じです」
■五輪の特殊性、大会後に検証必要
――五輪・パラは特別な存在といえますか。
「興行的に黒字を出すことがあり得ない状況で、税金もかなり持ち出しになります。近年は、開催する都市がなくなっているとさえいわれます。かといって、やめるわけにはいかず、世界のどこかが引き受けなくてはなりません。そんなイベントはほかにないと思います」
「それに毎年繰り返すかといえば、一生に一度です。もっとも東京では(五輪以外にも)毎年のように大きなイベントがありますから、(一生に一度というだけで無償を受け入れると)結果的に毎年たくさんの医師が必要になる可能性もあります」
――医師会として有償、無償の明確な基準はあったのですか。
「これまで、ほとんど議論がありませんでした。マラソン大会などのイベントを引き受ける場合、こちらから自治体に『これだけのお金が欲しい』と要求したりはしません。五輪・パラリンピックについて組織委から話があった時もそうです。あえて議論しないできたともいえます」
「今回の一件をきっかけに、きちんと話し合わなければならないと思っています。五輪・パラの無償は正しかったのか、五輪ならしょうがないのであれば、その特殊性が何かを明らかにして、そういう条件に合致するイベントは無償でも構わないが、それ以外は駄目というように線引きができるようにしたいです」
■組織委には「無償」再考促したい
――日本医師会との連携は。
「東京都医師会だけでは判断できないので、日本医師会と一緒に進めます。答えの出し方として、『日本医師会としてこういう提言をまとめました』となるか『(大規模イベントには)こういう疑念があるから、各地区の医師会で話し合ってください』となるかは、まだ分かりません」
――医師会として今後、五輪・パラリンピックの組織委に意見を言ったり要望したりすることはありますか。
「無償か有償かは、再考は促したいなと思っています。それから五輪・パラを検証するための情報を提供してほしい。それがないなら我々は独力でやるしかなくなります。そんな面倒なことにならないようにしたいです」
「今は、組織委がどの病院にどのくらい依頼しているかも我々は把握できていません。セキュリティのためといわれればそれまでですが、匿名化するなどして、もう少し情報公開はできるのではないかと思います」
<聞き手から>
■根本的に議論した形跡なし
五輪・パラリンピックの医師・看護師を無償にした理由について、組織委は「どういう条件なら(派遣が)可能か、いくつかの大きな病院に相談したところ、せっかくの機会なので協力したいというお話をいただいた」と説明する。あるべき論について、きちんと話し合った形跡はない。
さらに病院が医師・看護師に給料を払ったとしても、それは病院の判断であって、組織委は関知しないという。病院にとっては、お金の持ち出しになるわけで、そこまで好意に甘えていいものか。組織委は「(謝意を表すため)ホームページなどで病院を紹介することを検討している」と話していた。
(オリパラ編集長 高橋圭介)
猪口正孝
1984年に日本医科大医学部を卒業後、医学博士号を取得。医療法人社団直和会と社会医療法人社団正志会で理事長を務める。全日本病院協会常任理事、東京都病院協会副会長など兼務。
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