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【社会】

<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後74年> (上)平和な砂浜 地雷を抱く

戦争末期の特攻兵器の画像を見せながら、戸張礼記さん(右)は水谷記者に自身の体験を語った=茨城県阿見町で

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◆元海軍飛行予科練習生・戸張礼記さん(90) × 水戸支局・水谷エリナ(28)

戦争当時の戸張さん=1945年3月撮影

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 「空を見上げたら真っ青に晴れていて、海岸に波が寄せては返してね。白い砂浜がずーっと続いている先の崖の上が、牧場になっていたの。放牧された馬が五、六頭たわむれていて。頭上では偵察機が翼を銀色に光らせ、飛行機雲を引いて飛んで行くんだよ」

 茨城県阿見町の戸張礼記(とはりれいき)さん(90)の自宅で、七十四年前の話を聞いた私の脳裏に、美しい風景がありありと浮かんだ。

 それが、浜辺に掘った穴から敵の戦車に突撃する特攻「土竜(もぐら)作戦」の訓練中の話だと忘れそうになるほど。「平和な風景の中で戦車の下敷きになって死ぬのか、と思った」。戸張さんの言葉で現実に引き戻された。

 戦争体験を聞くにあたり当時の人が何を思い、何を願って戦ったのかを知りたいと思った。特に私の父がアメリカ人のため、敵国だったアメリカをどう思っていたのかも聞きたかった。戸張さんは「鬼畜米英を葬らないと自分がやられてしまう。そういう思いになれ、と教育を受けた」と振り返った。

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 戸張さんは一九四四(昭和十九)年六月に海軍飛行予科練習生(予科練)に志願。茨城県の土浦海軍航空隊では厳しい訓練が続き、ことあるごとに「精神注入棒」で尻をたたかれた。戦闘機の操縦士となり、「英雄としてあがめられたい」という思いで耐えた。

 当時、操縦士に憧れる少年は多く、「今なら、プロ野球やサッカーの選手に憧れるのと同じ」。置かれた状況が違うだけで、今と変わらない少年たちの姿が思い浮かぶ。

 四五年二月に土浦航空隊が米軍の空襲を受け、翌月に予科練教育が中止に。戦況は悪化の一途をたどり、国内は相次ぐ空襲で戦闘機を製造する能力も低下していた。戸張さんは青森県の三沢海軍航空隊を経て大湊海兵団に転属し、七月から本土決戦に備えた「土竜作戦」の訓練を始めた。

 砂浜に穴を掘り、海岸に上陸する戦車を待ち伏せし、棒状の地雷をキャタピラーに刺して自分もろとも爆発させる。「死ぬ覚悟だった」と言いつつ、「人間、なりきれない部分もある」と戸張さん。下北半島の砂浜で、自分の墓穴にも思えた縦穴に入っている時、「平和な景色の中で生きていたい」と誰にも言えない思いを抱いたという。

 予科練の先輩の多くが遺書で「最後に一目、母に会いたい」と書き残し、特攻などで命を落とした。「死にたくないという気持ちの現れだと思う」とその心中を察する。

 特攻訓練を始めた翌八月に日本は敗戦。戸張さんは「とても悔しかったが、ひそかに家に帰れる喜びも感じた」と当時の複雑な心境を話す。戦後は小中学校で教師を務めた。四十年近く戦争体験を語れずにいたが、「祖国や家族の平和を願い、散った先輩たちの記憶が消えつつある」と危機感を覚え、語り部を始めるようになった。

 戸張さんが戦争体験を語るときに伝えるのが「平和は守るもの」ということ。平和とは何かという思考力、平和を守るにはどうすればいいかという判断力、平和の大切さを伝える表現力が必要と問い掛けている。

 ◆ 

 戸張さんの自宅を訪れた翌日、高校野球の大会の開会式を取材した。入場行進する球児の姿が、戸張さんが写真で見せてくれた予科練の少年たちと重なった。時代や状況が違えば、バットでなく銃を持っていたかもしれない。平和を守るために何ができるか、自分に問い掛けている。

<予科練> 海軍飛行予科練習生および制度の略称。旧日本軍が若いうちから技術を身に付けさせて航空隊の搭乗員を育てようと、1930年に制度を開始した。全国から14歳以上20歳未満の少年を選抜し、終戦までの15年間で約24万人が入隊した。約2万4000人が教育課程を終えて戦地へ行き、特攻隊として出撃した者も多かった。8割にあたる約1万9000人が戦死した。

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 平成生まれの三人の記者が、昭和に起きた戦争で悲惨な体験をした人々に取材した。戦禍の記憶を令和の世に受け継ぎ、平和の尊さをかみしめるために。

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