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■週刊風刺新聞『シャルリー・エブド』紙より
■「原理主義者に圧倒されるムハンマド」(2006年2月)
<「馬鹿どもに愛されるのは、辛いよ」とむせび泣く預言者の絵>
■紙名を「シャリーア・エブド」とする特集号(2011年)
<イスラームの法規範の「シャリーア」をもじり、「笑い死にしなければ、百回の
むち打ち刑だ」と語るムハンマド>
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■『シャルリー・エブド』襲撃事件発生(2015年1月7日)
<週刊風刺新聞『シャルリー・エブド』の本社に、イスラム過激派テロリストが乱入し、
編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら合わせて12人を殺害した事件>
イスラムの開祖ムハンマドを風刺した表現で、幾度となく物議をかもして来たフランス・週刊風刺新聞『シャルリー・エブド』が、イスラム過激派に襲撃された事件が発生したのが、2015年1月のことでした。
(参照:シャルリー・エブド襲撃事件)
我が国では今、「表現の自由」をめぐる議論がにわかに沸き起こっています。
特に、朝日新聞は社を上げて、「表現の自由」がwwwと大騒ぎしています。
しかし、海外で起きた上記の「表現の自由」をめぐる事件に対して、朝日新聞はどのような論調だったのでしょうか?
以下、朝日新聞より引用します。
表現と冒とく―境界を越える想像力を
https://www.asahi.com/articles/ASH1L4QN0H1LUSPT003.html
ある人々による風刺表現が、別の人々に侮辱と受けとめられる。その反応が多数の殺害という最悪の形になったのが、フランスの週刊紙が載せたイスラム教預言者の風刺画だった。
「絵の問題でなぜ殺人まで」と思う人は少なくないだろう。一方、多くのイスラム教徒にとっては激しい冒瀆(ぼうとく)だった。
どんな理由があれ、表現に暴力で対抗するのは許されない。
ただ、表現の自由と、個人の信仰や規範との対立を、どう調整するかは難しい問題だ。
民主主義の歩みを振りかえれば、政治権力を対象にした表現の自由は決して制限されてはならないのは明らかだ。批判や風刺にも、最大限の自由が保障されねばならない。
だが、どんな場合でも無制限というわけではない。無分別な表現は、個人や集団、民族などの名誉や尊厳を傷つける「暴力」にもなりえる。
どこまでが自由で、どこからが侮辱か、その線引きは一様ではない。時代や社会によっても変わりうる問題だ。どの場合であれ忘れてならないのは、自由の行使には、節度と思慮が伴わねばならないということだ。
ある集団や民族に属していることを理由に存在意義を根本から否定したり、憎しみをあおったりする言動は、自由の名で守られるべきものではない。
自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力。それがあっての表現の自由である。
グローバル化が進み、インターネットが世界を覆ういま、あらゆる表現は国境や、文化圏、宗教圏をかるがる越える。
表現者が意図した「宛先」の枠内では問題のない内容でも、「宛先」の外では不穏当と感じられることが起こりやすい。欧州の新聞が自分の読者向けに載せた表現が、遠い中東の人々の感情を揺り動かすと同様に、日本の国内向けの言葉や表現も、瞬く間に国外を駆けめぐる。
多種多彩な文化や歴史が共存している世界の一員として、自由に伴うべき思慮の領域を、広く深く持たねばならないのが、いまの時代の要請であろう。
ある表現について、他者が違和感や反論を抱けば、それを表現し返す双方向性の手段が開かれるべきだ。報道機関を含め、表現者はいつも謙虚に耳を澄ます姿勢が欠かせない。
この表現が他者の心にどう映るか。たとえリスクがあっても表現する意義は何か。簡単ではないが、想像力を不断にめぐらす努力を続けていくしかない。
>だが、どんな場合でも無制限というわけではない。無分別な表現は、個人や集団、民族などの名誉や尊厳を傷つける「暴力」にもなりえる。
>どこまでが自由で、どこからが侮辱か、その線引きは一様ではない。時代や社会によっても変わりうる問題だ。どの場合であれ忘れてならないのは、自由の行使には、節度と思慮が伴わねばならないということだ。
>ある集団や民族に属していることを理由に存在意義を根本から否定したり、憎しみをあおったりする言動は、自由の名で守られるべきものではない。
>自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力。それがあっての表現の自由である。
>ある表現について、他者が違和感や反論を抱けば、それを表現し返す双方向性の手段が開かれるべきだ。報道機関を含め、表現者はいつも謙虚に耳を澄ます姿勢が欠かせない。
今、怒りに震える日本中の国民から、朝日新聞に特大のプレゼントをお送りします。
つい先日まで、大きく紙面を割いて、「表現の自由がwwwと大騒ぎしていた朝日新聞がこちらです。
抗議殺到し展示中止、悪しき前例「難しい社会に進んだ」
https://www.asahi.com/articles/ASM845T7KM84ULZU007.html
<「表現の不自由展・その後」の展示中止を知らせる案内板>
中止に追い込まれた、国際芸術祭・あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」は、愛知芸術文化センターの県美術館部分の比較的小さな展示室で開かれた催しだった。しかしその開催と中止は、大きな問いを残した。
有志による実行委員会が2015年に東京で開いた展覧会の続編にあたる。過去に展示不許可になった作品を示すことで「表現の自由」について考えてもらう企画で、多人数が足を運ぶ芸術祭の中、公立美術館で展示する意図は理解できる。今回は16作家の作品を展示。実行委員会とトリエンナーレの津田大介・芸術監督が準備を進めた。
(以下略)
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■社説
「『表現の自由』が大きく傷つけられた。深刻な事態である」
「一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた」
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■朝日新聞の一面(8月4日)
>「『表現の自由』が大きく傷つけられた。深刻な事態である」
「一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた」
朝日新聞のダブルスタンダードぶりには、本当に呆れかえります。
あたかも、「表現の不自由展・その後」の展示物自体には問題がなく、展示を中止させた側に問題があるような論調です。
今回の展示物の中で、最も問題だったのは、昭和天皇のご真影を焼くなどした作品です!
偽慰安婦像などは、それに比べればどうでもいい話です。
朝日新聞の連中には、それがよくわかっているのでしょうか?
ムスリムがムハンマドを侮辱されて怒る気持ちに理解を示していた朝日新聞と、国民が天皇陛下を侮辱されて怒っていることに逆切れする朝日新聞は、一体どこの国の新聞なのでしょうか?
人間なら誰しも、自分の身内の写真を焼かれて、それを踏みにじられるパフォーマンスを、「表現の自由」として受け入れることは到底できないでしょう。
まして天皇陛下のご真影は、日本国民にとっては、身内の写真以上に神聖なものです。
それが素直に理解できない者は、はっきり言って日本国民ではありません!
<参考サイト>
レーバーネット
http://www.labornetjp.org/news/2015/0115kikuti
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