戦後、半島系の思想的売文屋がとんでも説を書いた本を出し、
その本を「引用元」として学者の肩書を持つ半島系の反日活動家がこれを「引用文献」として本を出し、
その本をもとにアカヒなどの大手新聞社が宣伝と拡散を行い
その記事をひとり歩きさせるというパターンが繰り返されました。
事実と違うという指摘は何度も出されましたが、すると彼らが決まって言い出したのは差別です。
いわゆる「論点をすり替えて被害者を装う」という手口がここでも繰り返されていました。
こうして過去を否定され、愛を見失った日本人が、こうして拡散されたデマを頭から信じ込み、覇気をなくし、国家の活力、企業の活力を失わせ、企業業績を悪化させました。
そうすることで、企業や団体、組織が安く乗っ取られていきました。
その結果、なにが起こったかというと、
「ゆがんだ人たちにとって素晴らしい日本」
ができました。
ちなみにこの「引用」について、「引用元が明らかでない論説は学説の名に値しない」という論がまかり通っていますが、引用のある論説だけが論だとするのも、プロパガンタであると知らなければなりません。
本来、学説というのは一次情報に寄るべきものです。
戦前の日本の文系の学者・・・たとえば民族学の学者さんなどは、現地に入り、現地の少数民族と何ヶ月も何年も寝食を共にし、彼らの習慣や言語を学び、それを本にしていました。
ですから本に書かれたことは、いずれも「一次情報」であって、たいへんな価値のあるものでした。
机に座ったままでその一次情報をただ思い込みで批判しているだけのようなものは、ただの論評であって、価値がないとされていました。
それがいまでは、批判や論評が「引用文献が明らか」だから学説であって、一次情報は引用文献がないから学説ではないという。
それは本末転倒なプロパガンタにすぎないことは、少し考えたら誰にでもわかる簡単なことなのだけれど、戦後の日本人は思考力を奪われ、知的レベルが高いとされている人ほど、そうしたドグマから抜け出せない。あわれなものです。
・・・と話が脱線しました。
長崎の原爆についてです。
長崎市の当時の人口は24万人です。
原爆によってお亡くなりになられた方は14万9千人です。
なんと市民の62%の命が、一瞬にして奪われました。
このときの死者数は、すこし複雑です。
一般に戦死や殉職死は、国家の保障の対象とされます。
ところが原爆の場合には、
熱線による被害、
放射線による被害、
後障害、
高熱火災による被災、
爆風による被災、
建物倒壊等による被災
など様々な状況があります。
従って、即死、即日死をまぬがれた人であっても、その数日後、あるいは数カ月後にお亡くなりになるケースが生まれます。
長崎原爆の場合、爆心地から半径1km以内が、即死・即日死で、およそ7万人。
1km圏外での即死・即日死が、周辺地での死者が7万人、
そして数ヶ月のうちに亡くなった方を含めると、上の数になります。
長崎への原爆投下は、本当に大災害を引き起こしたのです。
ところが実は、被害はもっと大きかったかもしれなかったということは、あまり知られていません。
どういうことかというと、長崎への原爆投下の、つまりこの日の原爆投下の、当初目標地点は、福岡県小倉市(現:北九州市)だったということです。
当時の小倉市(現:北九州市)の人口は約30万人です。
小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。
つまり長崎と違って、遮蔽物となる山がありません。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、
北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域だけでなく、
さらに関門海峡を越えて対岸にある下関市にまでに及びます。
従って被害規模は、推定で即日死が30万人以上、数ヶ月後の死者を含めると、おそらく40万人以上の被害が生まれたことでしょう。
それこそ、ぞっとする事態です。
この、「当初目標地点が小倉市であった」という事実は、私たちが知っておかなければならない重要な事実です。
ではなぜ、原爆投下が、小倉から長崎に変更になったのでしょうか。
この日、原爆投下のために米軍が飛ばしたB-29は6機です。
6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところが4機にエンジントラブルが発生し、4機は、出発をし直しに帰還しています。
残りの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達しました。
その飛来したB-29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊は、あらゆる火力を使って応戦しました。
空中で炸裂できるもの、あるもの、全部を撃ちあげて、空中に巨大な煙幕を張ったのです。
3日前の6日には、広島に原爆が投下されているのです。
B-29の大編隊なら焼夷弾投下の可能性もありますが、わずか2機で飛来したということは、それは「原爆投下のためにやってきた可能性が大」なのです。
ですから小倉造兵廠の陸軍守備隊は、市民を護るため、それこそ必死の応戦をしました。
当時の日本の高射砲は、B-29の高高度飛行までは弾が届きません。
けれど爆弾投下のためにB-29は、高度2000メートルくらいまで降りてきます。
ですから、普通なら、B-29がある程度の低空飛行になるのを待って、高射砲を撃つのです。
そうでないと弾がもったいないからです。
日本は物資が少ないのです。
ところがこのときの小倉造兵廠の陸軍守備隊は、B-29の飛来とともに、あらゆる火力を動員して、B-29の真下に、手許にある炸裂弾を片端から撃ちあげました。
そうすることによって、B-29の真下に、煙幕を張ったのです。
大きな花火大会などを見に行かれたことのある方なら、ご理解いただけると思います。
風向きによって、花火自体の煙が空を覆ってしまって、肝心の花火が全然見えなくなってしまうことがあります。
小倉造兵廠の陸軍守備隊は、まさにこれをやったのです。
こうなるとB-29は、高い高度にある煙幕のために、目標地点の目視ができません。
煙幕の下に出ようとすれば、今度は高射砲の餌食となります。
それでもB-29は、45分かけて、低空飛行に移って目標地点を補足しようとする行動を3度繰り返します。
そしてその、まさに「めちゃくちゃに撃ってくる高射砲」の煙幕のために3度目の低空飛行入りに失敗したとき、
陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、
同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が、
緊急発進やってきたのです。
このためB−29は、小倉への原爆投下を断念し、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて、小倉の空から去ったのです。
こうして、小倉市民は救われました。
ですから、小倉から対岸の下関に及ぶ地域の40万の命が守られたのは、まさに日本の陸海軍のおかげなのです。
さて、小倉上空を離脱したB-29は、目標地点を第二目標の長崎に切り替えました。
そのB-29が、長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い「夏の雲」です。
つまりB-29は、地上から発見されないまま長崎上空に到達しています。
B−29
発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところがB-29の側も困りました。
第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、積雲の上を飛行しているため、原爆投下の目標地点の目視ができないのです。
つまりそのままでは原爆の投下ができなかったのです。
ところがこのとき、空を分厚く覆っていた積雲に突然割れ目が生じました。
そこから眼下に長崎の街並が見えました。
そこでB-29は「手動操作で」原爆を投下しています。
それが午前11時1分のことです。
放物線を描いて落下した原爆は、およそ1分後の午前11時2分に炸裂しました。
爆心地である炸裂の場所が、長崎市街中心部から約3km逸れたのは、このような事情があったからです。
原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。
これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。
この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。
広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少逸れたこと、および長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。
それでもおよそ15万人にものぼる市民の命が奪われました。
では、どうして長崎では、空襲警報も応射も間に合わなかったのでしょうか。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりです。
当然のことながら、長崎でも強烈な危機感を持ってB-29の飛来を警戒していました。
一方、硫黄島を出た二機のB-29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来し、9時44分に小倉に現れました。
このため長崎では午前10時過ぎに、いったん警戒警報の解除を行っています。
なぜならB-29の空爆先が小倉とわかったからです。
いったん防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻りました。
ところがそのB-29は、小倉での爆弾投下に失敗します。
そして移動するのですが、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っています。
また、高高度を飛行するB-29は、雲の上を飛びますから、地上から見えません。
このことは、B-29の側にとっても、地上が見えないことを意味します。
そこでB-29の乗員のひとりが、航法士に「現在地はどの辺りか」と尋ねたのです。
このとき答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと外部送受信用の無線スイッチを取り違えて、返事をしました。
このためB-29の機内通信が、外に洩れました。
よほど慌てたのでしょう。
慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB-29と空中で衝突しそうになっています。
この無線を、鹿児島沖で作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。
そのB-29が、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、
「チャック、いまどこにいる?」
と音声無線を返したのです。
これが午前10時50分です。
この無線通信を、日本も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、高度警戒態勢にあった日本の通信傍受隊は、B-29の一機が鹿児島沖にあり、もうひとつが長崎方面にいると場所を突き止めます。
そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけました。
知らせを受けた長崎市では、すぐに空襲警報を鳴り響かせています。
これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。
軍と市は一体となって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも動員して、長崎市民への緊急避難を呼びかけました。
ラジオからは、
「長崎市民は全員退避せよ。
繰り返す。
長崎市民は全員退避せよ」
という声が繰り返し流されました。
そしてその臨時ニュースの声が「全員退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂しました。
そしてラジオの声は無変調になりました。
アナウンサーの声は、原爆が光ったその瞬間で途切れたのです。
この当時の状況について、
「長崎への原爆投下は、
空襲警報が鳴ったけれど、
なぜか解除された。
そこに原爆が落ちた」
とか、
「大本営はB-29の無線をキャッチしていたが、これを放置した」
とかいう妄言を言う人がいます。
なるほど長崎では、いったん空襲警報が解除されましたが、原爆の炸裂前に、再度警報を出しているのです。
そしてもしかしたらそれが新型爆弾(原爆のこと)かもしれないと知っていながら、ラジオのアナウンサーも、局のスタッフも、死の瞬間まで市民への呼びかけを繰り返したのです。
そしてその放送は、軍の無線キャッチによる警戒情報発令があったからこそ行なわれたことです。
事実の断片だけを切り取って、まったく異なる事態であるかのようにすり替えることは、今も昔も変わらぬ特亜国の宣伝工作や、日本国内にいる日本人のような顔をして日本語を話す日本人でない人モドキの人々の常套手段です。
残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多いようですが、それが妄言に他ならないことは、少し調べたらすぐにわかることです。
さて、冒頭にある写真は、長崎に原爆が落ちたときのものです。
何もかもが瓦礫の山となった中にあって、長崎の山王権現様の鳥居だけ、まるで無傷で建ち残っています。
鳥居が残った理由は、物理的には、「鳥居は石でできた穴の空いた台にはめ込んでいるだけであったから、爆風を柳に風と受け流すことができた」というものです。
しかしそうであったとしても、熱風をものともせずに、そのまま立ち続けているのは、やはり不思議なことです。
山王権現というのは、日吉(ひよし)様の別称です。
もともとは大山咋神(おおやまくいのかみ)を御祭神としています。
お名前にある「咋」とは「杭(くい、くひ)」のことで、大きな山に杭を打つ、すなわち大きな山の所有者の神様であり、山の地主神であり、そこから国土鎮守の神様とされています。
つまりこの鳥居は、日本にはれっきとした神々がおわすこと、そしてたとえ焼け野原になっても、決してめげることなく、雄々しく起ち上がれという神様からのメッセージを表しているのではないかと思います。
さて、おわりにひとつ。
北九州が「必死の抵抗を試みたことで救われた」ということは、私達日本が世界で唯一の原爆国であるだけに、しっかりと認識すべきことなのではないかと思います。
残念なことですが、世界は、必死の自衛を講じなければ、民族ごと蹂躙されるのです。
それが世界の現実であり、歴史であり、真実です。
これによって日本人は、現実に犠牲者を出しています。
北九州の小倉で行なわれた必死の抵抗は、まさに自衛権の行使です。
上空が弾幕の煙幕で隠れてしまうほどの対空砲火を行ったということは、それが市街地ですから、その対空砲火の流れ弾や上空で爆発した弾薬の破片等が市街地に落下してきて民家等に被害をもたらす危険だってあるのです。
けれど、だからといって対空砲火を「しなかった」なら、何が起こったのでしょうかということにこそ、私たちは気づかなければならないのだと思います。
※この記事は2015年8月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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「まだまだ暑い日が続いておりますので、お体に気をつけておすごしください。」
の煙が数キロ離れた 小倉を目隠ししていたこともあるんですよ。
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)6月16日に、初めてB-29を使用した日本本土空襲の対象となる(八幡空襲)。空襲はこのあと同年8月20日におこなわれたあとは1年近くなかったが、終戦直前の1945年(昭和20年)8月8日の空襲で大きな被害を受けた。この空襲により発生した煙は、八幡市へもさらなる壊滅的打撃を与えたであろう小倉市への原子爆弾投下を妨げることとなった(詳細は「長崎市への原子爆弾投下」の項参照)。
午前11時02分。
世界で最後の原爆。
長崎…一瞬で何万人もの尊い命が失われてしまいました。
お亡くなりになられた全ての御霊のご冥福を祈り上げます。
合掌
昨年の「長崎平和宣言」を読み返しました。
いつものことながら、加害者米国を全く非難しません。
核保有国にはお願いばかり…核を持たない日本政府には文句ばかり言ってます。
近隣には危険な国が幾つもあり、ミサイルが飛んでくる時世でのこの態度は、国内の対立を煽るだけではありませんか。
戦勝国が自国の不正を認めたり、敗戦国の言うことを聞いたりした例はありません。
怒りを表に出さない国民性?
だとしても「正当な怒り」を大声で発信するのは「被爆国の権利」だと思います。
今日は長崎の原爆の日ですけど、広島が最初に投下されたのもあってか長崎に対する原爆の影は薄いように感じられます。実際、長崎に関して原爆を綴った書籍も少ないですし。
ただ、これは広島が原爆の惨状を語り継ぐことを優先したのに対し、長崎は復興を最優先したこととも無関係ではないかもしれません。ただ、だからといって長崎の当時の方針を批判するのは御門違いでしょう。しかし、浦上天主堂に関しては保存すべきだったという意見も根強くあったようですが。
で、視点をアメリカ側に移すと広島への原爆投下は3機の合流から投下地点まで雲も殆どなく天候は快晴、事実上邪魔をするものはなく全てが順調に進み、その結果はパーフェクトであったと言えます。
一方、長崎への原爆投下は小倉での必死の煙幕作戦に阻まれ最終的に断念、しかも偵察役の3機目は誤って高度12000mを飛行していただめ合流できず、このことで慌てて無線封止を破ってしまったばかりか、長崎に向かう途中で原爆搭載機であるボックスカー号の燃料系統にトラブルが発生し、このままだと帰還も怪しくなるため早く投下する必要がありました。原則としては第二目標である長崎でも投下不能である場合、太平洋上に投棄するようにと命令されていたのですが、厚い雲に阻まれてなかなか投下できないため最終的に現場の判断に委ねるを解釈してレーダー爆撃に切り替えようとした矢先に雲の切れ目から爆撃目標を視認、大慌てで原爆を投下したというのが真相で、長崎の結果は杜撰とも言うべきものでありました。
このため長崎市中心部は山に阻まれたのもありますがこうした杜撰さに救われて然程被害を受けなかった訳です。
にしても、何故レーダー爆撃も可能だったのに目視による投下が厳命されていたのかと言えば、通常の爆弾と違い衝撃波が円周状に拡がるため投下地点が分からないと戦果判定ができないためでしょう。
投下を終えたボックスカー号は直帰は不可能だったため占領間もない沖縄の飛行場に立ち寄ってますけど燃料残量が僅か30ℓにも届かなかったとか。
余談ながら、市街中心部は事実上消滅した広島ですけどその中に救いを求めるならば工場などの生産施設の被害が軽微だったことかもしれません。というのも、広島の工場はほぼ郊外にあるため原爆被害からは外れていたのです。府中にあった東洋工業(現マツダ)も、観音及び下祗園にあった三菱工場も事実上無傷で済みました。
更に余談ながら、日本は激しい空襲に曝されましたけど、常に偏西風が吹いている関係で高高度からの精密爆撃では工場などの破壊は難しく、これが夜間低高度での無差別爆撃につながったとも言われており、さすがに航空機工場は執拗に爆撃を受けましたが、実は自動車関連工場は殆ど無傷で残りました。これも天恵かは分かりませんが、松下電器も大阪は激しい空襲に遭いながらも本社と主力工場は焼け残っています。
この生き残った自動車工場に、まさか四半世紀余り後に当時世界の自動車市場に敵なしだったビッグ3が追い詰められることになるとは思ってもいなかったでしょう。まるで真珠湾で撃ち漏らした空母によってミッドウェーで機動部隊が壊滅させられたのと似ています。
で、これも余談ですが、原爆計画をほぼ全てに渡って仕切ってきたルーズベルトはそうした戦果とアメリカの(ほんの刹那であったが)輝かしい時代を見ることなく1945年4月に世を去りましたが、これにしてもあまりにもタイミングが良すぎるような気がしないでもありません。というのも、ルーズベルトは完全にソ連寄りであり、チャーチルはスターリンの危険性について散々警告していたらしいのですが聞く耳を持たなかったと言います。
結果、大統領がトルーマンに替わったことで日本分割統治は幻となりソ連の計画は事実上の御破算になったと言われ、北方四島の占領が手一杯だったのです。
その後、アメリカは第二次大戦の勝利をピークに衰退の道を歩み、ソ連は僅か46年後に崩壊、今も経済的な低迷に悩まされています。今思えば建国から僅か69年、臨時政府設立から数えても74年に過ぎませんからまさに短命国家です。尤も、ソ連の場合は経済システムの欠陥と破綻による自壊ですから恥ずかしい限りですねえ。
アメリカにしてもあの輝かしい時代は僅か20年程、振り返れば閃光花火が燃え尽きる瞬間の最後の輝きにも似ていなくもありません。
共通しているのは日本に手を出していることで、これは日本の呪いなのでしょうか!?
1点「安倍総理の顔をハイヒールで踏みつけた展示」がトリエンターレにあるというのはガセネタのようです。
ご確認頂き、早めに削除いただいたほうが良いと思いましたのでお知らせでした。