~うしはく(領有)としらす(統治)~
「汝(な)がうしはける葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は、我(あ)が御子(みこ)のしらす国と言依(ことよ)さし賜(たま)えり。」
これは天照大神と高木神の詔(みことのり)を使者である武甕槌(タケミカヅチ)が大国主に伝えた言葉。
ここで重要なのは、『うしはく』と『しらす』の意味。
ハツクニシラススメラミコトという言葉がある。
これは、初めて国を治らしたスメラミコト(天皇)という意味。
これは、初代天皇である神武天皇や、初めて神々の祀り方をととのえた10代崇神天皇のことを指す。
ちまたでは、力による領有が”うしはく”であり、徳による統治が”しらす”という説明がされる。
その説明であながち間違ってはいないのだが、
こう書くと、”うしはく”はダメで”しらす”こそが大事だと捉えられることがある。
だが、そんなことはない。
どっちも大事である。
”うしはく”は決して暴力的なことを意味しない。
”うしはける者”とは、頼り甲斐のあるリーダーということなのだ。
「おまえらの面倒は俺が全部見てやる!だから、俺についてこい!!」
そう言い切れるカリスマ的なリーダーである。
面倒見がよくて、仲間を大切にし、困っていたら助け、弱きを守り強きをくじく。
食べ物を確保し、生活を安定させ、敵から仲間を守る。
そんな頼れる漢がうしはける者。
では、もうひとつの統治の仕方、”しらす”とはどういうことか?
しらすとは、依存しあう関係を断ち切ること。
うしはくには、領有という漢字が当てられる。
リーダーが仲間を引っ張る。国民も国土もリーダーが把握する。
おまえらの面倒は俺が見てやるからおまえらも俺についてこい!
それがうしはく。
一方の、しらすは、国民も国土も誰の所有でもないという立場に立つ治め方。
しらす者は、ただ天の意思にのみ寄り添い動く。力をもたないので頼り甲斐はない。
今生の人間関係の損得よりも天の意思が優先される。
行動の判断基準は個人の意思というよりは全体の調和に適うかどうか。
損得を超えた次元にあればこその意思決定。それをこの世界でもっとも体現されてる方が天皇陛下である。真に平和を希求するものからすればこれほど信じられるリーダーはいない。
うしはくは、個人の力量が試される。
しらすは、個人の徳の高さが試される。
うしはける者の代表としてアマテラスよりニギハヤヒに与えられた神宝は、十種の神宝という、現実に悩み苦しむ民を具体的に助けることのできるツール。
しらす者の代表としてアマテラスよりニニギに与えられた神宝は、三種の神器という、自らを磨き徳を高めるためのツール。
うしはく者としらす者、この両者の和合こそ、この国における”国譲り”。
それは、いわゆる政権交代ではない。
役割分担。
残念ながら世の中から目先の利益で動く人はなくならない。その人たちをまとめる頼れるリーダーは絶対に必要だ。同時にそれだけでは真の平和に近づくことはできない。
損得をこえたところで天意に基づいて動くリーダーもまた絶対に必要。
うしはくリーダーとしらすリーダーは、お互いの役割を求めあう。
損得をこえたところで動くには力はもたないほうがいい。
すべてを手放す必要がある。大いなるものにすべてを委ねることが求められる。
しらす者が無防備で天地の渡し(私)としての役割を果たせるように力あるものが守り支える(僕)。
卑弥呼とその弟
ニニギ(スメラミコト)とオオクニヌシ
神武天皇と長髄彦
ヤマトヒメとイザワトミ
天皇(朝廷)と征夷大将軍(幕府)
国譲りとは、うしはける者の持つチカラをしらす者に預け、しらす者の持つ徳をうしはける者に託すという、この国にしか存在し得ない究極の協力体制のことである。
これにより、中国が70年の国家であるのに対し、日本は2677年という世界一の長さを誇る国家になるのである。国譲りを対立と見るか、協力と見るか。
解釈は自由。ならば自国を愛せる解釈を僕は与えたいと思う。 山田祥平 合掌
ルミナさんから 来ました。神話興味あります。面白いですね。
( ^-^)。.:*:・’°☆