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毒ガス製造「後ろめたさなかった」 広島の93歳、加害悔やむ

毒ガス工場のための発電所跡。島内にはほかにも貯蔵庫跡など多数の遺跡が残っている=広島県竹原市の大久野島で

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 原爆で被爆した広島には「加害」の歴史もあった。瀬戸内海の大久野島(広島県竹原市)は戦時中、旧日本軍の毒ガス製造の拠点だった。国際条約で使用を禁じられた毒ガスは中国で多数の命を奪ったとされ、戦後も遺棄兵器として再び悲劇を引き起こした。工員としてその一端を担った藤本安馬さん(93)=同県三原市=は贖罪(しょくざい)を胸に証言する。「私は戦争によって人間の面をかぶった鬼になってしまった」

 シュッ-。不気味な音を立て、目の前で毒ガスの原液が飛び散った。一九四三年ごろ、大久野島の工場内。十代だった藤本さんが、原液を高温のかまから貯蔵タンクへ移す最中、バルブ操作の力加減を誤った。

「私の猛勉強は誤った目的で生かされてしまった」と後悔を語る藤本安馬さん=広島県三原市で

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 首より上を覆う防毒マスクの隙間からガスが忍び込み、刺されたような感覚が走った。見ると首筋には複数の水疱(すいほう)があった。だが、強い使命感が痛みと良心をまひさせた。「毒ガスで戦争に勝ち、英雄になる」

 広島県吉名村(現竹原市)の貧しい農家に生まれた。高等小学校の卒業直前、教師に「金をもらいながら勉強できる場所がある」と誘われた。四一年、十四歳で大久野島の工員養成所へ。島に渡ると刺激臭が鼻をつき、木々は枯れていた。教官は言った。「君たちは毒ガスを作る。一切口外してはならぬ」

 養成所では難解な授業に苦戦しながら猛勉強で上位に立った。約二年で毒ガス「ルイサイト」の担当に抜てきされ、正式な工員に。浴びれば皮膚がただれ、容易に死に至ることから「死の露」と呼ばれていた。

 製造工程は複雑で、同僚は幾度も事故で重傷を負った。しかし「中国人を殺すことに後ろめたさはなかった。勝利のため必要だと邁進(まいしん)した」。三年余りの勤務を経て京都の火薬工場に転属。そこで終戦を迎えた。

 大久野島毒ガス資料館によると、ガスは日中戦争で多くの中国人を殺傷した。しかし、戦後に電動工具店などで働いた藤本さんはしばらく、自らの「加害」の記憶から目を背けていた。

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 四十八歳の頃、せきやたんに悩まされた。診察結果は慢性気管支炎。毒ガス製造の後遺症だった。その後、戦時中の毒ガス使用の実態が明らかになってきた。現地住民が遺棄された毒ガスに触れて体がただれるなどの二次被害も発生した。

 「私は被害者である前に加害者であり、犯罪者だった」。九〇年代から学校などの依頼に応じて証言活動を始めた。中国も三回訪問して住民に直接謝罪した。

 毒ガスを作るための化学方程式は今でもそらんじて言える。「加害の証拠を忘れるわけにいかない」から。後遺症で胃と十二指腸を摘出し、声もかれた。だが、命ある限り証言を続ける。「日本は戦争で何をしたか。学ばねば過ちは繰り返される。私は学ぶ。鬼から人間に必ず戻ってみせる」

 (武藤周吉、写真も)

 <大久野島> 広島県竹原市の瀬戸内海に浮かぶ周囲約4キロの小島。1920年代後半に当時の陸軍が毒ガス工場を建設し、29年から44年ごろにかけ、びらん性の「ルイサイト」のほかくしゃみ性ガス、催涙ガスなどが製造され、多くは中国で使用されたという。現在は、工場の建物が残り資料館も整備されている一方、「ウサギの島」としても知られ多くの観光客が訪れる。

 

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