糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

08月07日の「今日のダーリン」

・「いい人」ということばには、いろんな意味があります。
 どういう人が「いい人」なのか、
 定義するのも、なかなかむつかしいでしょう。
 でも、とても具体的なだれかについて話すとき、
 ぼくらは「あの人はいい人だねぇ」と言ったりします。
 他の人もそれについて賛同してくれたりもします。
 つまり、「いい人」を探すのは簡単じゃないけれど、
 結果的に「いい人」であると認められる人は、
 たしかに存在するわけですよね。

 じぶんのことを「いい人」だと判断するのも、
 たぶんとてもむつかしいことです。
 じぶんが「いい人」のようなふるまいをしたことだとか、
 「いい人」と言われるようなことをしたことだとか、
 じぶんで知っているとしても、
 その「いい人」としてのふるまいの前に、
 なかなかの悪いことを考えていた…というようなことを、
 じぶんだから、知っているんですよね。
 どこかで、ぼくらは、
 「いい人」は悪いことを考えないと思いこんでいる。
 実際に、ほとんど悪いことを考えないような
 純真な「いい人」も、具体的にぼくらは知っています。
 そういう人ってほんとにいるんですよ。
 それと比べたら、もう、たとえばぼくなんか、
 悪いことだっていやらしいことだって卑怯なことだって、
 考え放題、思い浮かべ放題だとも言えます。
 なるべくこころ美しくして、悪いことを考えないように
 練習してきたようなこともあるけれど、
 じぶんの知っている実際の「いい人」の前に出たら
 恥ずかしいほど「非いい人」なんですよ。

 ただね、そう思うときに、想像力で仕事をしている
 作家たちのことを思い出すんです。
 人の悪や、世の地獄を余るほど描いたシェイクスピアは、
 「いい人」じゃないということになりそうだけれど、
 それはそれで「いい人」かもしれないよなぁ、と。
 別にシェイクスピアが「いい人」でなくてもいいんだけど
 「いい人」かどうかというのは、こころの問題ではなく、
 なにをしたか、どんな態度でいたかじゃないかなぁ。
 というようなことを岩田さんと話したことがありました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やっぱり「どういう人でありたいか」が、いちばん大事か。