出典:『ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ ジュディ・オング×舘野晴彦』の番組情報(EPGから引用)
[字]ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ ジュディ・オング×舘野晴彦
「魅せられて」から40年、今も当時の声で歌うという美声の保ち方、若さの秘訣、知られざるプライベートまで語る。当時レコード大賞を競い合った西城秀樹との秘話も。
詳細情報
番組内容
1950年、台湾で生まれる。父の赴任で3歳の時に来日。9歳で劇団ひまわりに入団し、その2年後、日米合作映画「大津波」で女優デビュー。そして16歳の時、歌手デビューを果たす。
1979年、「魅せられて」が200万枚を超える大ヒットを記録。曲を聴いた時の心境やレコーディングの苦労話、レコード大賞を競い合った西城秀樹との交友、そしてハリウッド映画の出演依頼を受け、歌手か女優かで苦悩したという当時の心境を明かす。
番組内容2
日本・台湾・中国とアジアで活躍し、アルバム・シングルは60枚以上、映画やドラマへの出演も100本を超える。台湾大地震、四川大地震、東日本大震災では率先してチャリティーや募金活動を行い、アジアの架け橋として活躍。一方で、日展特選を受賞する木版画家でもあり、木版画の魅力も熱く語る。
「魅せられて」発売から40年。今も当時のままの声で歌う彼女の美声の保ち方、若さの秘訣とは?そしてプライベートも赤裸々に明かす。
出演者
【ゲスト】ジュディ・オング(歌手、女優、木版画家)
【インタビュアー】舘野晴彦(編集者)
次回放送予定
次回3月16日(土)は、ボーカリストの鈴木雅之に、タレントでエッセイストの小島慶子が迫る!お楽しみに!
番組概要
様々なジャンルで時代を切り開いてきたトップランナーたち。彼らはどのようにして“新たな時代の扉”を開いてきたのか?人間洞察のプロのインタビュアーによって、知られざる「裸の履歴書」が明かされる!!
番組ホームページ
<番組ホームページはこちら!>
www.bs-asahi.co.jp/interview/
制作
BS朝日、ViViA
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『ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ ジュディ・オング×舘野晴彦』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
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お気に入りの中国料理店がある〉
は~い。
あっ いつ見ても素敵ね 本当に。
嬉しい。
何かあると
誕生日もここですしね。
お祝いもここですしね。
台湾から お客様 来ても
ここですし はい。
失礼します。
あ~。
どうも はじめまして。
はじめまして。
舘野と申します。
こんにちは。
失礼します。
どうぞ よろしくお願いします。
よろしくお願い致します。
こちらのお店は よく…?
もう… そうです。
もう 25年ぐらい前からで。
25年?
はい。
僕も たまにお邪魔するんですが。
そうですか。 おいしいでしょ?
おいしいです。
そうなんですよ。
もう 脇屋さんが
すごい研究家で。
ええ。
込み入ったものを
どんどん どんどん…
新たな挑戦がありますよね。
そうです。
驚かせて いつもくれるんです
だから。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
失礼しま~す。
♬~
〈歌手 女優 木版画家と
多彩な肩書を持つ
ジュディ・オング〉
〈あの大ヒットから
すでに 40年の歳月が流れた〉
♬~
〈発表当時 29歳〉
〈69歳になった今も
変わる事のない美貌を
保ち続けている〉
♬~「Wind is blowing
from the Aegean」
〈1960年代のデビュー以来
映画はもちろん
テレビ界でも活躍〉
〈活動の舞台は
広く アジアに及ぶ〉
〈ふるさと 台湾は
彼女の功績をたたえ
国民栄誉賞ともいえる賞を
贈っている〉
〈東日本大震災では
自ら台湾に飛び
チャリティーイベントや
募金活動に尽力〉
〈台湾からの義援金は
実に 200億円にも上った〉
〈両親からの期待に
さまざまな形で応えている〉
♬~「I hear babies cry, 」
♬~「I watch them grow」
♬~「They'll learn much more」
♬~「than I'll ever know」
〈そのポジティブなエネルギーは
どこから湧いてくるのだろう?〉
♬~「what a wonderful world」
♬~
♬~
とか言われて。
剣友会のお兄さんたち…
女の子ですからね。
わざと こういうとこ
斬ってくるわけですよ。
よけて?
よけて こう斬るんですよね。
って言うから
「いや それは…」って言ったら
「斬るのは真っすぐだろ」。
私 真っすぐ来たら どうしよう
って思うじゃないですか。
西城くんが…
西城くんが
「レコード大賞は…」
って。
私は もう
西城秀樹さんと思ってました。
「え~!」ですよね。
あ~。
もう
そしたら スッと 黒い影が来て
パッと こう
ここ持ってくれたんですよ。
結婚とかについては どんなふうに
思ってらっしゃるんですか?
大事ですか?
ワクワク…。
あっ この人
とかなんか
思えばいいんですよ。
よろしくお願いします。
お願いします。
こちらで必ず召し上がるものとか
ありますか?
あるいは 好きなものは?
大好きなのはね
一日かけて
鶏一匹を白菜で包んで
蒸し煮っていうんですか?
…をしてくれるのがあるんですよ。
それをジュディーズスープ
っていうふうに
言ってくださってるんですけど。
私が 本当に
体がよれよれになった時に
これを頂いて元気になって。
また おいしいから 余計
元気になっちゃうんですよね。
さらに?
さらに元気になって。
ですから こちらで頂く時は
必ず それを出してくださる。
へえ~。
こちらの版画も…。
あっ そうだ
ここは私の部屋っていうふうに
言ってくれてるんですけど…。
お店の人に伺いました。
ジュディーズルームだという…。
そうですか。
これは 脇屋さんのお誕生日に
おめでとうで
持ってきたんですけれども。
絵自体は 名古屋の古川爲三郎さん
という方がいらして
その人の記念館に
数寄屋造りがあるの。
一室だけ洋室があるんですけど
そこの窓から見た外。
あ~。
夏の日。
そういう ちゃんと
物語もあるんですね。 へえ~。
外は38度 部屋の中では
気持ちのいい24度とかです。
へえ~。
そう。
陰の中にいると涼しくて
日なたに出ると
また太陽を体に感じる
というような夏の窓と。
窓シリーズの一つ。
コントラストみたいな?
そうですね はい。
〈木版画家としても
確固としたキャリアを
重ねてきた
ジュディ・オング〉
〈日本家屋と花を主なモチーフに
画題を探して
各地を旅する事もあるそうだ〉
〈日展に入選する事 14回〉
〈2005年には
特選にも輝いた〉
〈それにしても
なぜ木版画だったのか?〉
版画は もう すごく
ジュディさんの人生においても
大変な重みを持ってる…。
そうですね。
25歳から始めましたので…。
小さい時から絵は好きなので
油絵を描いてて
友達に誘われて
「白黒の版画見に行きましょう」
って言って
うんうん 面白いと思って。
もっと こう なんていうのか
民芸調のものかなと。
白黒の版画ですから。
でもって 行ったら 超モダンで
もう ポピーの花が
ぐわ~と咲いている…。
本当に版画への考えが
変わりましたね。
で やりたい。
その瞬間に?
思いましたね。 花が好きなので
ポピーの色って こうだろうな
っていうのが
ふっと一瞬
赤が見えたんですよね。
でも あれは版画の力ですね。
やりたいと思って 入ったら
先生いらしたから
「弟子にしてください」って。
題材とかテーマみたいなものは
どうやって探されるんですか?
もうね あーっと思ったら
そこの場所を…
住所を取っておくんです。
例えば 酒田というところに
行きました時にね
酒田の相馬樓というね
すごい建物がある。
これ 昔は置屋さんだったのね。
もうね 外から もう すごいの。
見た瞬間 うわ~ どうしよう
って思うぐらい素敵だったの。
そうすると そこの名前を書いて
住所を書いて…。
控えておいて?
控えておいて。
それで 日を改めて
スケッチブックと
カメラと三脚と…。
フル装備で?
フル装備で。
その題材 テーマを
取りためておくっていうか
書きためておく
っていう事ですか?
そうです そうです。
そうするとね
頭の中で
こういう構図になるんだな。
なるなる なるなる
っていうのが見えるんです。
それがウキウキしちゃって…。
伺ってるだけで楽しいです。
もう 早く帰って 早く描きたいの。
そのぐらい?
はい。
版画の良さって
改めて なんだと思われますか?
そうですね やはり…。
のかもしれませんけど。
一刀… 例えば 長い…
ここに切り出し刀といって
こう 三角形みたいになってる
切り出し刀を こう 入れますね。
そしたら
目は ここじゃなくて
ここを見てるんです。
はい。
顔の向きは ここですけど
目の先…
目の意識は ここを見てます。
それで ぐって入れたら…。
ここまで来ちゃう。
へえ~。
一刀。 これを一刀…。
それを一刀というんですね。
そう。
そうすると とっても…。
〈1950年〉
〈ジュディ・オングは
台北に生まれた〉
〈両親と兄の4人家族〉
〈ラジオ局に勤めていた
父親の転勤で
3歳の時 日本に移り住む〉
〈家庭内の会話は
かたくなに台湾語だったという〉
〈ふるさとを忘れないように…
それが両親の教育方針だった〉
最初の頃
四谷に住んでおりましてね。
その父が キャンプドレイク
っていう
ベース…
ベースっていうんですか?
進駐軍?
進駐軍。
軍の中… 米軍の中の基地で
仕事をしてたので
四谷が近かったの。
四谷に
一軒家を借りるんですけど
私たち…。
へえ~。
台湾式です。
台湾スタイルですね?
ええ。
隣のマサコちゃんのお家に
遊びに行くと
マサコちゃんのお家は
畳で ちゃぶ台があって
「お煎餅食べる?」なんて こう
出してくださるわけですよね。
サザエさん家みたいな感じ…。
そう。
もうね
すごい楽しい思い出です。
そうすると
床の間に上がったりなんかして。
小さい時から
国際交流をやってましたね。
ハハハハッ。
そういう意味では。
それで 父が
米軍に入ってましたから
朝 パッと… ゼニスって
昔はラジオがあって
バッとつけると
Far East Network…
FENがかかる。 そうすると
♬~「I say Good Mornin'
Mister Echo」
って歌が ピャーと
流れてくるんですよ。
それを聞いたら朝食の時間なの。
オレンジジュースに牛乳
それから
ハムエッグにトーストに
ピーナツバターで
ジャムを思いっきりみたいな。
そういう朝食でした。
ホテルの朝食みたいな…
日本人からすると…。
アメリカンでしたね。
へえ~。
私 あとで聞いたんですけれど…。
(2人の笑い)
母が朝 寝ぼすけで
起きてこれなくて。
お母さん?
そう。 私は全部…。
ピーナツバターも全部 父…。
至るまでですね?
へえ~ そうなんですか。
〈少女時代 家庭教師に
ついて学んだ英語に加え
大学ではスペイン語と
早くから
インターナショナルな語学力を
身に着けている〉
〈芸能活動のスタートは
9歳の頃〉
〈友人の誘いで
劇団ひまわりに入った〉
芸能界にデビューしようって
思ったのは いつ頃なんですか?
9歳。
私 9歳の時
バレエやってましてね
バレエの友達が
「ちょっと行かない?」
って言うから
「なあに?」って言ったら…。
って言われて
「あっ 本当!?
スターに会えるの?」。
「スターに会えるのよ」
って言われて
ついていったんですよ。
へえ~。
それが劇団ひまわり?
そう。 そしたら なんか
ちっちゃいのが英語しゃべったり
中国語しゃべったり
日本語しゃべったりするんで
「面白いから 入団いいよ」って。
「テストなし」って言って
「じゃあ お父さん お母さん
知ってるの?」って言ったら
「知らない」って言ったら
「いやいや
それは ちょっと困るから
ちゃんと
お話してらっしゃい」って。
お父さん お母さん
どうだったんですか?
だって
ブロードキャストのね
いわゆる放送の仕事を
してるわけですから。
芸能界にうちの娘が
みたいな。
母は 若い時から
モダンガールで
「お母さんは 今から
お花に行ってまいります」
って言って
ダァーッと走ってて
着替えて
馬乗りに行っちゃうとか。
そういう人なんですよ。
だから やってみなきゃ
わかんないじゃない
みたいな事で…。
それがスタートです。
なるほど。
それで 天真爛漫だし
エネルギーもあるし
それから 利発だしっていう事で
どんどん どんどん頭角を現す
って感じに
なってきたんですかね?
テレビで
声をかけて頂くんですけれども
大きかったのは
日米合作の映画で
『大津波』。 うん。
伊丹十三さんがお兄さんになる。
へえ~。
ええ。
その時ってのは
子供心に楽しいんですか?
楽しいです。
へえ~。
バレエが好きだったのは やっぱ
演ずる事が好きだったんですね。
なるほど。
ええ。
当時は じゃあ そのまま
どんどん どんどん そういう
エンターテインメントの世界で
頑張っていこうという気持ちが
募っていった時期ですか?
他の職種を何するかっていうの
全然わかってなかったので
これが楽しい
っていうふうに思ってましたね。
なるほど。
歌手になるのは もう 15歳…?
15歳以降 16歳ですね。
♬~「今夜は星と恋したい」
〈1966年〉
〈16歳で歌手デビュー〉
〈4枚目のシングル
『たそがれの赤い月』が
50万枚を超える
ヒットになった〉
〈19歳で
上智大学に入学〉
〈日本での成功を踏まえ
台湾でも
芸能活動を始めた〉
〈1971年には 台湾映画に出演し
主演女優賞を獲得している〉
〈だが スケジュールの過酷さに
体調を崩し
1年間の休養〉
〈この頃 日本国籍を取得した〉
〈復帰後は
数々のテレビ時代劇に出演〉
〈共演した名優たちから
多くを学んだ〉
ちょうど ご病気から復帰されて
時代物とか 時代劇に
これから出ていくっていう…。
それは すごい また…
見識というか…。
そうですね。
おきゃんな娘から
大人の女性になっていくところを
母が どっかの文献で
「美空ひばりさんは
時代劇をやった」と
本を読んだんですよ。
はあ~。
確かにそうですね。
そうですか。
それで じゃあ 娘も時代劇。
はあ~。
あっ そうなんですか。
じゃあ 自然に その着物 浴衣の
所作が身に着くっていうか…。
そうですね。
はあ~。
ありがたい事に
名前がそうですから。
「ジュディちゃんはわからないわね
そんな生活ないから
じゃあ ちょっと
教えてあげましょう」って
皆さん 教えてくださるの。
山田五十鈴先生も
本当によく教えてくださって。
すごいですね それ。
うん。
この頭巾のね…。
ここで今 お料理してたら
頭巾かぶるじゃないですか。
頭巾の この取り方とかね
教えてくださるの。
そうか 確かに日本人同士だと…。
知ってるんじゃない
って思うんですよね。
きっと知らないから
ちょっと教えてあげるよって事?
そう。
へえ~。
それは また すごい貴重な…。
ラッキーです。
へえ~。 立ち回りも。
怖いですよ
立ち回りしてる時の若山先生の。
「なっとら~ん!」とか言われて。
みんなで…
剣友会のお兄さんたち…
女の子ですからね。
ですから わざと こういうとこ
斬ってくるわけですよ。
よけて?
よけて こう斬るんですよね。
リハーサルが… お稽古
ひととおり やり終わったら
「やめえ!」って あの声で…。
「ジュディ」って…。 「はい」。
何したかなって
思うじゃないですか。
剣友会のみんなに言うて
「なんで こう 斬る?」。
って言うから
「いや それは…」って言ったら
「斬るのは真っすぐだろ」。
私 真っすぐ来たら どうしよう
って思うじゃないですか。
そしたらね 「ジュディ
真っすぐ来たらどうする?」
って言われる。 「よけます」って。
「どうよける?」って。
「こう よけます」。
「肩が斬られてる」。
「切っ先三寸だ。 こう とる」
っていうふうな
そういう事を
教えてくださるんですよ。
撮影 休み。
はい。
「休みだ!」って
「2時間 稽古しろ!」。
ご飯抜きで 2時間 稽古して。
いわゆる 立ち回りの? へえ~。
そうです。
それで 山田さんとか
若山さんとか あと…?
勝新さん。
すごい。
へえ~。
はい。
芝居をするにあたって…
全部 こう
出来てるじゃないですか。
それで… 驚く時とか
なんか…。
あ~。
過剰な事はダメって事ですか?
ダメって。
もう なぜかというと
カメラが
そういうふうに撮ってるから
ここで 人が
ここに こう入ってきて
見られたらいけないところを
バッて後ろに人が入ったら
振り返れないけど
ドキッとするっていったら
「あ~」とは やらないですよね。
「うっ」って 息は止まるけど。
それは もう カメラが
パッと寄ってるし
もう 見るほうは
「あ~ どうしよう」
ってなってるはずだから
やりすぎるなって。
見てるほうが寄れば
そこに意味を見いだしますもんね。
そうなんですよね。 だから もう
ここで ドキッとしてれば
いいのであって
顔でドキッとする必要もない。
へえ~。
もう 伺ってても
豊かな役者生活っていうか…。
ラッキーだった。
すごいですね。
いい時代に育てて頂きました。
〈時代劇への出演が多かった
20代〉
〈ジュディ・オングは
女優業と並行して
歌手活動も続けていた〉
〈代表曲となる
あの爆発的なヒットが
生まれたのは
29歳の時だった〉
〈作詞 阿木燿子 作曲 筒美京平〉
〈下着メーカーの
CMソングだった『魅せられて』は
瞬く間に チャートを駆け上がる〉
♬~
〈名曲が生まれ落ちるまでの
舞台裏には
人知れぬ苦労もあったようだ〉
あの曲は 最初に
こう まず渡された時に
曲との出会いというか
第一印象は どんな感じでした?
ハハハハ…。
ハハハハ…。
地声から裏声 裏声から地声…。
もう すごい…。
それから 全部の歌詞に16分音符?
16分音符。
…が 付いてるんですよ。
だから
息ついてる暇…
安心出来ないんです。
いっつも つま先立って
歌ってないといけない。
へえ~。
それを なんでもない顔で
歌わなきゃいけないという…。
そして もっと難しいのは
あの歌詞が…
「好きな男の腕の中でも
違う男の夢をみる」
っていう詞があるんですけど
私 これ
どうやって歌うんだろうと思って。
阿木さんに 「ここは
どういう気持ちで
歌ったらいいんですか?」
って言ったら…。
…って言われて。
「ああ そうっすか」って…。
ああ じゃあ もう
知らん顔して歌いますっていう…。
ハハハハ…。
知らん顔して
今日も歌ってますよ。
レコーディングもね
風邪ひいたり いろいろで
なかなか終わらないんですよ。
3回か4回ぐらいやりましたかね。
あの曲に対して?
はい。
そのディレクターのカネコさんが
「南に向いてる窓を明け」
なのよって。 「はい」って言って
「南…」。
「違う」って
毎回 止められちゃうの。
わかんなくなっちゃって
トイレに駆け込んで
ずっと そこで 「ううう…」って
もう涙ながらに そこにいた…
覚えてますよ。
そのディレクターさん…。
出来ないから。
なんなんだ…
何がズレてたんですか?
いまだに わからない感じですか?
その指示は。
わかんないんですけど…。
ハハハハ…。
わかんないんですけど
知らぬ間に
入ってきたのかもしれませんね。
「よし」って言われましたから。
一説には 1日20万枚
売れたんじゃないかって
なんか資料もありましたけど
すごいですよね。
ええ。 まだ 時代劇やってた時に
マネジャーが
ダーッて走ってきて
岡っ引き姿の私に…
「今日 『魅せられて』
10万枚 売れたよ」
って言われたの。 1日で。
1日で。
ええ。 プレスが間に合わなくて
バッと出したら
10万枚 売れちゃった…。
それが…
「おっ なんか起きてるのかな?」
って思ったんですけど…。
私はね
ずっと そこまでね 自分…。
石原裕次郎さんの女版
みたいなつもりで
歌っている俳優
っていう感じだったんですが
そのあとに「東京音楽祭」という…。
はい。
武道館で 1万人 入ったね。
出てったら
武道館が割れるぐらいな
「うわー!!」って 声 頂いたの。
はい。
それで
「あっ ヒットしてるんだ」って
初めて… 思いましたね。
〈鮮烈な印象を残す
純白のドレスは
自身のアイデアだった〉
〈『紅白』への初出場をきっかけに
ドレスは さらに
バージョンアップしている〉
衣装とか 振り付けみたいなものも
すごく話題になって
本当に みんな
まねしてたっていうか… はい。
あれ 私 考えたの。
ああ そうなんですか。
はい。 スクリーンドレスって
どういうのですか?
ここに スクリーンみたいに映して
白いでしょ? ドレスが。
本当は 一番最初… 当初ね
ダイアナ・ロスさんが
日本に来て 白いドレス着てて
ある瞬間
パッと 手をね 大の字にしたの。
そしたら この体に沿って…
いわゆる
ストレッチの生地だった。
で あの…
左側に ダンサーの人たちが来て
そのストレッチの生地を
ガッて引っ張ったら
真四角になったんですよ。
で そこに
飛行場から降りてきて
ここに至るまでの
リハーサルの笑った顔とか
全部 ここに映って
映りながら歌ってるわけ。
ああ あれ やりたいなと
思った時に
ある日
この『魅せられて』が来ました。
私は
ダンサーが付いておりませんので
自分で やらなきゃ
いけないじゃないですか。
だから まあ こう じゃあ…。
これが
人間が言う 一番おっきい…
その… 面ですよね。
そうですね。
だから ドレスで白ければ
ここに映せる
っていうふうに思ったの。
へえ~。 あれ 途中から また
さらに大きくなってますよね?
あ~ そうなんですか。
本番に
あっと言わせようっていう事で。
だから 私の衣装の永島先生が
「しょうがないですね
大きくしましょう」。
ハハハハ…。
大きくしましょうって どう…。
もう しようがないですよね。
「どうするんですか?」って
言ったら
エクステンション。
ああ。 拡張 伸ばして。
そう。
それで ディレクターさんには
リハーサルには着ますけども
でも
で 引きでやって。 それで
♬~「チャチャチャ チャチャチャ
チャララン」
うわ~って来た時
後ろが… 「うわ~!」って
後ろが言ったんですよ。 紅組が。
それで 前も
「うわ~」って言ったので
「大成功」。
ハハハハ…。
大成功でした。
この手があったかって感じですね。
そうですね。 だから
永島先生には感謝ですよね。
「大きくしましょう」に。
ハハハハッ。
〈1979年のレコード大賞を
受賞した『魅せられて』〉
〈けれど この年は
何人ものライバルが
しのぎを削っていた〉
すごいですね ライバルの曲が。
もうね ヒット曲が
ずーっと並んでますよね。
さだまさしさんの『関白宣言』とか。
『関白宣言』。
ゴダイゴ
『ビューティフル・ネーム』とか
『舟唄』とか。
そうですね。
山口百恵さんとか。
そう。
もう それぞれの立場で
これでもかっていうぐらい
いいものが…。
並んでますよね。
聴くほうは 楽しい1年だったと
思いますけど
戦うほうは
大変だったと思います。
年末には でも やっぱり
あの年の顔として認定された
っていう感じですかね?
そうですね。
レコード大賞 頂いた時は
あのね…
西城くんが… 西城くんが…。
競って。
私は もう… 実を言うと
裏でね お化粧し終わって
こう支度してたら…
フッて振り返ったら
うちの お付きの女の子が
「うう… うう…」って
泣いてるんですよ。
「あら… ダメだったんだわ」って
私 思いますよね。
そしたら 「いえ 大丈夫です」。
「ジュディさん 大丈夫です」とか
言われて。
「はい」。
あら… そっか そういう事か。
まあ いいや。
一生懸命 今日まで歌ったし。
今日は じゃあ…。
なんて気持ちで。
それで 歌いました 座ります
「それでは 発表です」。
「今年の…
1979年 レコード大賞は…」って。
私は もう
西城秀樹さんと思ってました。
「ジュディ・オング 『魅せられて』」。
え~!? ですよね。
あ~。
もう 一瞬
なんか 真っ白になっちゃって…。
「ええ… ええ!? そうなの?」
っていう。
真逆を 心は いってましたから。
そしたら スッて 黒い子が来て
パッと こう
ここ持ってくれたんですよ。
はあ~。 ライバル。
はい。
へえ~。
もうね 本当に
かっこいいですよ。
かっこいいですね。
日が経ってから
「西城くん あの時は
本当に ありがとう」って
言ったら…。
はあ~。 スターですね。
スターです 本当に。
いい友達です 本当に。
残念でしたね そういう意味では。
残念です。
〈社会現象とも言える大ヒットは
しかし 彼女に
女優か 歌手か
大きな選択を
突きつける事になった〉
〈まさに この時期
ハリウッドのテレビドラマから
ヒロインへのオファーが
あったのだ〉
その脚光と同時に
ハリウッドの作品からも
声が かかっていて…。
そうそう。
もうね 激動の1979年ですね。
ハリウッドの『将軍』のお話は
もう 前年度からありまして
私はね 読んでたんです。
原作を読んでたのね。
これ出来るの私しかいないわとか
なんかね
思っちゃっていたんですけれども
結局 それで
プロデューサーにも会って
パラマウントまで行って。
でも
『魅せられて』
2月とか そのぐらいですかね…。
そうですね。 はい。
じゃあ… でも 確かに それを
予測する事なんか出来ないから
どんどん どんどん売れていって
ヒヤヒヤしたって事ですか?
そうですね。 まあ 実を言うと
もうちょっと早く
クランクインするはずだったのが
いろいろ遅れて
半年以上 遅れちゃったんです。
ちょうど ゲームが始まった頃。
いわゆる…。
賞レース?
っていうふうになって。
でもね 母に
あの時に言われましたよ。
「出来ないって
決断をしたら…」。
「自分の決断を
尊敬しなさい」と。
「2年後に
これ 出てきても
悔やんじゃいけない」と
言われました。
まあ そうは言っても
ハリウッド作品ですからね
どれほどの思いだったかと
思いますけど…。
うん。 小さい時に
国際女優になりたいっていうのを
『朝日新聞』のインタビューで
言ってましたね。
そんな事を夢見てたので…。
まあ うん…。
でも…。
なるほど。
選択をした時に
ああしたら よかった
こうしたら よかった もう絶対…。
特に おっきい選択の場合は
あってはいけないという事を
母に 本当に…。
うん…。 そうか…。
だから 今 振り返ってみても
ああ すごい1年だったなって。
ですねえ。
でも そんな経験って何人出来る?
いや 本当 そう思います。
だったら いいんじゃない? うん。
〈ジュディ・オングは
これまで ボランティアや
チャリティー活動にも
熱心に取り組んできた〉
台湾が大地震に遭いまして…。
〈1999年
台湾が
大地震に見舞われた時には
自ら 街頭に立って
支援を求めた〉
ありがとうございます。
どうぞ よろしくお願い致します。
もう
で 台湾の…。
うん。 フフフフ…。
〈片や 東日本大震災では
台湾に飛び
メディアなどを通じて
やはり 支援を訴えている〉
〈この時 日本への義援金は
自身の版画作品の提供を含め
なんと 200億円を超えた〉
日本でも 3・11があったりして
台湾の人に
随分 助けてもらいましたよね。
いや もう あれは 私
日本のね 自分の自宅で
あの時 いたんですよ。
そしたら フッと思ったの。
あっ ふるさとに帰って
助けてもらった日本に
今 恩返しをお願いしにいこう。
あ~。
そう思って
大使館に電話したんです。
大使に電話して。
「私 壁に 今 絵が掛かってます」。
「私 もう1つ 持って行きます」。
「私 歌います 司会できます」。
「そういうふうな番組が
前あったけど
そういうのはないですか?」って。
「行かしてください」って
電話したら
「うん わかった」って。
「じゃあ
明日の朝まで待て」って。
朝 8時に
電話かかってきましたよ。
「ジュディ 行けるよ!」。
へえ~。
「本当に行くんだね?」。
「行きます!」。
「飛行機 取ってください」って。
「絶対 行きます」って言って
飛行機の席もらって
版画 持って帰ったの。
はあ~。
そしたら
「どうですか?」って言うから
「いや もう 今 大変だから
お願いだから みんな
台湾… 日本を助けて」って。
っていう声が。
もう 涙が出ましたよ。
それで その翌日かな。
その日…
その日 もう やったわね 私。
あ~。
その日 もう 番組がありましたよ。
翌日もありましたよ。
へえ~。
2日間で 65億ぐらい
いったんじゃない?
あ~ すごい数字。
結果的に 200億…。
220億になりましたね。
220億?
はい。 だから いかに
台湾が日本を好きか。
〈アジアの架け橋に
なるように…〉
〈それは 台湾や中国で歌う
娘の歌に
自ら 歌詞を寄せ続けた
父親の教えでもある〉
ジュディさんというと
アジアの国々の
架け橋になるっていうのを
お父様も ずっと
おっしゃってたんですよね?
そうですね。
とは
日本で 私が歌い始めてからね。
その文化の力で
各国を繋いでいく?
そうですね。
…って 父は教えてくれまして。
それで 私が
歌を歌うようになってから
「じゃあ 台湾で これらのヒットを
カバーしよう」って。
それの詩を
父が 全部 書いてくれたんです。
へえ~。
そして 今度 中国に行って
中国でも 私 『魅せられて』の
中国語版があるんですよ。
『魅せられて』じゃないのよ。
『愛的迷戀』
っていう歌なんですけど。
それは
中国文化の中に入りました。
あ~。
そうやって
「文化を繋いでいきなさい」って
言われました。
お父さんの説得力たるや
すごいですね 今 伺ってたら。
〈69歳になる今も
まるで少女のように
エネルギッシュ〉
〈もちろん
日々の努力のたまものだろう〉
でも 人間 いわゆる
老いとか 老化というものは
どうしても避けられないわけで。
そういうものに対しても
向かい合うって事ですか?
やっぱり 時々 こう
ボーカルトレーナーに行って 軌道修正。
横隔膜が こう
グワッと上にいるっていう事が
体の… 声帯を上手に震わせて
そのために
いっぱい下がって いっぱい上がる
という事ですよね。
それってなんですかっていうと
やっぱ 腹筋 背筋。
それから フッ フッていうふうに
吐き出す力とか。
そういうものですよね。
あのね 「筋力を
付けなきゃいけない」って言って
トレーナーさんついて
ステップボードを120回 朝。
120 1 2 3 4。
それから スクワット 20やって。
それで 翌日
歩行困難になっちゃったの。
ハハハハ…。
ハハハハ…。
だから まあまあ…。
あ~。
まあまあやって それで…
そっから少しずつ増やしていくか
焦りはいけないなと思いましたね。
引いたり 足したり
引いたり 足したり。
あ~。
細胞と話をするんですよね。
あ~。
でね もう
迷惑をかけちゃいけない
迷惑をかけちゃいけない
だから 私は
もう 無理してでも出て行く。
で 翌日 倒れたら
大迷惑をかけるでしょ?
もっと迷惑になるって事ですね。
だから 「ごめんなさい
今日 ご飯 行かない」って言って。
「わがままだけど すいません」って
言って。
休んじゃうとか
そういうのでいいんです。
あれ 付き合い悪いよな
結構じゃないですか。
ちゃんとした事をやるために。
そうですよね。
そこが ぶれてなければ
って事ですよね?
そう。
そうか。
僕なんか
もう 50後半になってきて
やっぱり いろんなものが
ガタがきたり 衰えたり
鏡 見れば…
二日酔いの朝の鏡 見れば
なんか
別人のような顔が映ったりする。
ある種 男でも なんか こう
ちょっと 恐怖みたいなものも
あるんですけど
そういう事じゃないんですね?
しょうがないじゃないですか
老いはくるんですから。
それを どういうふうに
アプリシエイトするかっていうか。
ねっ その中で 努力がなかったら
ダメですよね ええ。
結婚とかについては どんなふうに
思ってらっしゃるんです?
あの…。
縁があれば 会うだろうし。
それでその人 本当に好きで
一緒にいないと
つまんないなと思うんだったら
一緒になればいいし。
それほどでもないのっていったら
ボーイフレンドで
いいんじゃないですか?
まあ そうですよね。
その程度でいいと思いますよ。
そのぐらいでね。
うん。 やっぱ
ワクワクは でも したほうがいいの。
大事ですか?
ワクワク…。 「あっ この人
ちょっとハンサムでいいな」
みたいな。
この人に撮られる時は
きれいに写ろうとかなんか
思えばいいんですよ。
ねっ それがいいのよ。
そういう事ですよね? 要するに。
なるほど。
楽しくない? それって。
いや 楽しいと思います。
ねえ。
人生 豊かにするためにも。
あっ 今日 私…
お会いするんだわ。
ちょっと なんか
調べとこうかしらとか。
なんか こういうふうな事ですよ。
あ~ そうですよね。
そういう事の積み重ね…。
舘野さんに 今日 会うの
やっぱり 最初ね お顔を…
私 全然ね 顔写真がなかったの。
どういうお仕事をしてるかは
読んでるんですけども
お顔を拝見してなかったので
どういう方が
いらっしゃるのかしらって
もう ワクワクしながら。
そうですか。
ええ。 予想… 予想以上でした。
ああ そうですか
ありがとうございます。
〈ジュディ・オングの新曲は
『ほほえみをありがとう』〉
〈キラキラと笑顔を光らせて
感謝と夢とを歌っている〉
〈無類の愛犬家としても知られ
自宅では 犬たちと
にぎやかな暮らしを送っている〉
〈いつまでも若くある
ジュディ・オングは
今 どんな夢を
抱いているのだろう〉
今後 やっていきたい事
お仕事でも
プライベートでもいいんですけど。
大詰めなんですけど
伺えますかね?
私ね 実を言うとね
すごく やりたい事があるんです。
なんですか?
本 書きたいの。
本?
それでね ジュディのノート
っていうのがあるんです。
面白い事があったら
書いて そこに戻すの。
はい。 あっ いつも
書きためてるって事ですか?
そう。 なんか あったらね そう。
で アイリスの…
「私はアイリス」って
アイリスちゃんのね
目から見た 私たち親は
どうかっていう。
あ~ その視点を変える?
そう。
『吾輩は猫である』のように?
そうそうそう。
これはね なんとね
犬を飼う人たちは
知らなかったんだろうって事
たくさんあるんですよ。
あ~ 発見があるんですか?
はい。
アイリスの生まれた時から
ず~っと ノートブック…。
え~っと 今 5歳ですからね。
相当
たまってるんじゃないですか?
すごいですよ。
ちょっと このあと
相談しましょう。 ハハハハ…。
ハハハハ。 そうですか ぜひとも。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。
あのパワフルさに
圧倒されましたね 素晴らしい。
人生の選択…
たくさんの究極の選択を経てきて
でも 後悔しない。
選んだ道をまっとうするっていう
お母さんに教わった
生き方みたいなものが
覚悟みたいなのが
伝わりますよね うん。
少しだけでも なんか
マネしたいなと思いましたけど。
なんか 格が違うなっていうのか
スケールの大きさを感じました。
〈ジュディ・オングの座右の銘〉
はい 「悦己悦人」。
己も悦び 人も悦ぶ。
父から教わった言葉です。
自分だけ悦んだって
その後 関係は
長続きしませんね。
でも 相手ばかりよかったら
こっちも嫌ですよね。
「どこで 一番いい線を引いて
互いが ハッピーになれるか」。
「それをモットーに
一生 生きていきなさい」と
言われました。
「悦己悦人」
悦己悦人。
私の座右の銘です。
〈人の心は
合わせ鏡〉
〈笑顔には
笑顔が
返ってくる
ものだ〉
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