中世から近代初期にかけて、西洋のスコラ哲学者たちは、世界の多様性を説明する仕組みとして、「存在の偉大な連鎖」を考えていた。それは世界の多様性を、石ころから神へと上っていく階級制度に置き換えたものだ。存在の偉大な連鎖において、ヒトは動物の中では一番上だが、天使よりは下に位置している。
この存在の偉大な連鎖は、「神は存在しうるものすべてを創造した」という世界観に基づいている(『移行化石の発見』ブライアン・スウィーテク、文藝春秋)。つまり、この世には、存在できるものすべてが存在し、欠けたものはないということだ。鎖の中で隣り合っている環と環はお互いによく似ていて、ほんの少し違うだけだ。そういう環が途切れなくつながって、この世界を満たす多様性を作っているというのである。
だから、隣同士の環と環は、よく似ているはずなのだ。ところが、ヒトの両隣りは、天使とサルである。天使はともかく、ヒトの隣りがサルのような卑しい動物であるはずがない。ヒトの隣りにしては、サルはあまりに下等すぎる。きっと、ヒトとサルのあいだには、まだ環があるに違いない。「神は存在しうるものすべてを創造した」のだから、その環はまだ見つかっていないだけなのだ。そうして、その環(に当たる動物)は、ミッシング・リンク(失われた環)と呼ばれるようになった。
しかし残念なことに、ミッシング・リンクは何世紀もずっと見つからなかった。そのうちに「存在の偉大な連鎖」自体の地位が揺らいできた。19世紀になると、とくに生物の多様性を説明する仕組みとしては、進化にその地位を明け渡すことになったからだ。それでも、ミッシング・リンクという言葉は生き残った。とはいえ、いわばミッシング・リンクの住んでいた家が、「存在の偉大な連鎖」から「進化」に変わったのだから、ミッシング・リンクの意味も当然変化した。
今では、Aという生物からCという生物が進化したと考えられるにもかかわらず、その中間の生物の化石が見つかっていないときに、その見つかっていない生物をAとCのミッシング・リンクと呼ぶ。つまりA→B→Cと進化したとして、Bが化石として見つかっていないときに、BをAとCのミッシング・リンクと呼ぶのである。
ところが、このミッシング・リンクは、誤解を生む言葉になってしまった。だって考えてみれば、ミッシング・リンクなんか見つかるわけがないのである。