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≪視覚「障害」者として≫

1971年、千葉県野田市で生まれた。右目は生まれつき全く見えず、左目はうっすらと見えていた。
小学校に入り医師より、残された左目の視力も失って
しまうと宣告を受け、絶望の極致に追い込まれ学校に行く事
すらできなくなった。


≪死を考える≫

中学校に入り人生を悲観し、死を考え日々深夜徘徊を繰り返していた。
小学校から不登校だった為、学習に追いつけず「障害」を理由に教師が加担した激しいイジメもあり、学校を拒絶するようになった。
そうした中でも、一部の友人がいた。
しかし、中学3年生になると受験が迫りその友人も離れて行った。
いよいよ、孤独無縁になり「障害」をもって生きている事に絶望した。
 
≪仲間との出会い≫

中学までは親を恨み「障害」を悲観し、自分を傷つけて生きてきたが、関宿高校に入学し、さまざまな「障害」をもつ仲間や外国人、被差別部落出身者など差別と抑圧を受け、同じ境遇を共にする友人達との出会いで価値観が変わった。
チェルノブイリの翌年、16歳の時から反戦・反原発闘争や三里塚闘争、「障害」者解放運動など、市民の生きる権利を守る闘いに目覚めた。
高校3年生になると生徒会長を務めた。
「障害」者の入学を拒む学校側と対峙して放送室に立てこもった事、日の丸・君が代の強制に反対して卒業式に不起立で臨んだ事、校内で市民運動の署名を集めた事など、生徒会活動が今の原点となっている。
20歳を過ぎ、残された視力を全て失った。
その後も激しい闘争で、権力と激突する場面もあった。
闘うか、従うかを迫られる権力支配に疑問を感じていた。
こうした闘いの中で、社会の歪みを強く感じる青年時代を送っていた。





         
 
自主夜間中学で台湾の生徒さんに日本語を教える内田ひろき 
 

 ≪社会の歪みとの葛藤≫

人生の中でさまざまな事と葛藤してきた。
差別や抑圧との闘い、視力が失われる事による危険な日々の生活環境。
とりわけ、ホームから線路への転落や視力が失われる事で人々が去って行った経験など、語り尽くせない程の屈辱は今でも忘れられない。
こうした体験から、心の傷みに気づく地方自治、心の傷みに気づく地域社会を作りたいと感じた。

    
   
  通勤している内田ひろき
                       
 ≪人間とのつながり≫

15年間、病院でリハビリテーションの業務に従事。新東京病院、野田病院などを経て、最後は野田中央病院に勤務した。
脳卒中や骨折による後遺症をもつ高齢者から人生を学んだ。
患者と労働者の権利を守る為、行政や病院の経営側と激しくぶつかる事もあった。
仕事の傍ら、教育ボランティア活動にも参加した。同和教育に携わると共に、自らと同じ苦しみをこれからの若者達に負わせてはならないと言う思いに加え、戦後の混乱期に義務教育を受けられなかった市民の基礎学力や外国人の日本語習得など、取り組むべき課題に気づき、自主夜間中学の運営に係わった。
そこに学びにきたアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)の青年と係わり、母子家庭だったその母親と縁あって結婚した。
息子は、現在では地域社会・医療に支えられながら生活を送っている。


  
立ち上がりの指導をしている内田ひろき 
 



  ≪柏コミューン計画に向けて≫

自らの生きざまに照らし、今の社会をみると地域コミュニティーの確立が重要だと感じる。
そのために地方自治の果たすべき役割は大きい。
政治の現場である地方自治は、アメリカ追随の新自由主義経済を進める国の戦争政策に対して、常に批判精神を持たなければならない。
戦前戦中には役場の職員が、赤紙を届け回ったと言う歴史の事実、教訓がある。
そんな市役所にしてはならないと言う思い、願い、決意である。
コミュニストの団結で、1%の資本・国家権力に奪われた政治と税金、地方自治を99%の労働者・民衆の手に奪還し、人民の暮らし、雇用、福祉が守られる地方政治を実現したい。

急進左翼の私、内田ひろきは政党や財界の顔色を窺う事なく、地方自治ではイデオロギーの違いを乗り越え、地域で暮らす人々の叫びを直接政治の場に反映し、革命の主体としての自治体・柏市政を建設したい。
政治は、政党や財界、組織のためにあるのではなく、市民生活のためにあると確信している。

一点突破・全面展開、反撃と抵抗の自治が始まった。

  

   政策の訴えに歩く内田ひろき