多くの採用担当者は、あなたの「人となり」を判断する材料として「趣味特技」欄までチェックしています。だから、適切に趣...
田中角栄と聞いて、どんな人物を思い浮かべますか?どうしても、金脈政治の問題とは切り離せないイメージがあるかもしれませんが、これだけ多く名言や格言を残し愛された政治家も居ないでしょう。その名言や格言から田中角栄の、豪胆でも繊細なイメージが浮かび上がります。
更新日時:
数々の名言や格言で知られる田中角栄が生まれたのは、今から約90年前の1918年です。この後の激動の人生を象徴するように1918年は、大きな変化のある年でした。 まずは第一次世界大戦の終結、教科書にもよく出てくる米騒動で寺内内閣総辞職、そして日本最初の政党内閣である原内閣が登場した年でもあります。そして、田中角栄と同じ1918年に生まれたのが、中曽根康弘です。言わずと知れた大物政治家が二人も誕生した年でした。
田中角栄の小学校の成績は、ほぼオール10という輝かしいものです。(一度体育で9をとったことはあります。)しかし、このころから流行りだした家庭教師や、塾通いということは田中角栄はしていません。 彼の生家は決して裕福では無く、むしろ極貧と言って良い状況でした。父の事業が失敗続きであったことで、高校に行くこともできませんでした。内閣総理大臣と言えば名だたる大学卒であることが通説であるなか、実は田中角栄は中卒なのです。数々の名言や格言が、一般庶民の心に届く理由かもしれません。
中学校を卒業後、土木現場で働きますがこれは1か月で退職し別の土木関係の派遣所で働き始めます。その最中、1934年理化学研究所から採用の誘いがあります。誰もが、彼の秀才ぶりに目をつけた勧誘だと思ったと言います。 しかし、実際に行ってみると井上工業という会社の住み込みの仕事でした。この経緯は不明ですが、田中角栄はここで腐ることなく中央工学校の夜間科で働きながら勉強します。そして、1936年無事に卒業し建築事務所で働き始めます。そして、のちに放つ名言や格言を裏付ける体験をします。
建築家として独立し、事務所を構えて働きながら、田中角栄は商業学校へ行きます。ここで、今度は経営や商業に関する勉強をします。のちに政治家になるにあたって必要な様々な知識、経済の見方、のちの名言や格言を生む要素などもこのような経歴の中で学んでいったのが分かります。 多くの政治家がこれらを教科書などで学ぶのに対し、田中角栄は自分の体ひとつで学んでいきます。 途中徴兵されますが、ここでも類まれなる能力を認められ騎兵上等兵となります。しかし、肺炎の発症で内地に送還され、治療の後除隊し再び建築事務所を設立します。そして、事務所の家主の娘「坂本はな」と結婚し、事務所を改編して「田中土建工業」を設立します。田中角栄は業績を伸ばし続け、全国でも有数の実績を残しました。
会社の顧問である代議士との付き合いをきっかけに、とうとう新潟2区から初めて出馬します。この時は惜敗してしまうのですが、その次の総選挙では自分で選挙活動を精力的に行い、新潟3区で初当選します。29歳という若さでした。この時のキャッチフレーズは名言「若き血の叫び」です。この時から、地元を大切にし新潟3区に強力な地盤を築いていきます。何と言っても身内を大事に、という格言もあります。
若いながらもしっかりと主義主張をする田中角栄に、当時の総理大臣「吉田茂」は非常に強い興味を抱いていました。そして、わずか30歳で第二次吉田内閣で、法務政務次官に就任します。ここから、六法を記憶していたという田中角栄の頭脳と、実行力が発揮されていきます。なんと33件もの議員立法を成立させました。ほとんどの政治家が官僚を頼るのに対し、田中角栄は自分自身で発想し法律を作り根回しし成立させていったのです。数々の名言や格言を残したのも、自分自身の言葉で語ったからでしょう。 この頭脳と実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と言われました。数々の名言がその様子を物語っています。
第二次岸内閣にて、郵政大臣に就任します。先見の明があった田中角栄は新聞社とテレビ局の整備をおこなうなど、着実に実績を残していきます。そして、自民党の幹部へ就任し田中角栄の発言力は日増しに高まっていきます。 44歳で池田内閣にて大蔵大臣に就任します。大蔵省(現在の財務省)は、エリート中のエリートの集団で中卒の大臣など聞いたことも無いような部署です。そこで、心に響く名言と一人一人の名前と家族構成を覚えて常に声をかける、という人心掌握術により官僚の心をつかみ実績を残していきます。 このとき格言をいくつか挙げています。
とうとう内閣総理大臣に就任した田中角栄は、名言や格言とともに次々に功績を残していきます。特に、就任2か月で国交が断絶していた中国に総理大臣として訪問し、日中共同声明を発表「日中国交正常化」を成立させたのは驚きを持って称えられました。
総理大臣として着実に実績を残しながら、その金権政治への批判も高まっていきます。国会での追及も厳しくなり、娘の自殺未遂問題も起き、やむなく総理大臣を辞職します。しかし、数々の名言や格言で官僚や政治家の心を強くつかんでいた田中角栄は、その後も政界に力を発揮し続けます。第71代内閣総理大臣の中曽根首相も、ほとんど田中派の内閣人事をおこない「キングメーカー」として、田中角栄は政治の世界に残り続けます。 しかし、58歳の時に航空会社とその販売代理店の丸紅からのわいろがあったとして、ロッキード事件が勃発し長い裁判の末、有罪判決を受けてしまいます。 幼いころに苦労したためか、田中角栄の格言にはお金に関することも多いのも事実です。
裁判の中でも田中角栄は議員活動を続け、相変わらず名言を放ち影響力を誇っていましたが、67歳で脳梗塞となり車いす生活になります。そして、72歳で正式に政界引退し75歳で人生を終えました。 格言を多く残し、まさしく激動の人生でした。
田中角栄の性格を一言で表すことは非常に難しいと言われています。非常に強い決断力と実行力を持って日本を率いた剛腕ぶりを見せながら、非常にデリケートで繊細な面があったとされています。これは田中角栄の名言や格言からも分かります。 浪花節と映画を愛し、家族を非常に大事にしました。これは、田中角栄が総理大臣を辞職した決定的なきっかけが、娘の自殺未遂であったことからも分かります。格言の中にも、身内をまず知ること、というものがあります。 幼いころから天才ぶりを認められ、その頭脳を武器にのし上がってきたと思われていますが、実際には非常に義理人情に厚い政治家でした。内閣総理大臣を辞職した後も、闇将軍などと言われながらも支持者が絶えなかったのは、その浪花節の性格とそれをはっきりと格言にして言い表せたことによるものです。
田中角栄が初当選した歳に、長男正法を亡くします。この時、田中角栄はひどく悲しみました。そして、 「いつも残った自分が十分なことをしてやれなかったという悔いを感じた。生きているうちに家族にも、友人にも出来るだけのことをしてやりたいという気持ちが一層強くなった。人のためになるように生きたいと思った。」 といっています。この名言は人のためにという気持ちが、田中角栄の政治家としてのルーツにあるのかもしれません。
エリート中のエリートの集団のトップに就任した田中角栄は、 「小学校高等科(現在の中学校)卒業である。我と思わん者は誰でも大臣室に来てほしい。上司の許可はいらん。出来ることはする。出来ないことはやらない。しかしすべての責任はこの俺がとる。以上」 という名言を残しています。簡潔明瞭で、きれいごとの無いこの格言は瞬く間に官僚の心をつかんでいきます。
田中角栄の育った環境は、恵まれているとは言いがたいものでした。そこから這い上がるには、不満ばかりいっていてはできなかったはずです。成育歴をひも解くだけでも納得のいく名言です。
これは、田中角栄の豪胆さの裏にある繊細さを一言で表したような格言です。人間はみんな出来損ないであり、失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうか、という名言も残しています。
田中角栄はこの格言通りの有言実行の人でした。出来ない約束はしない、借りた金は忘れるな、貸した金は忘れろという言葉でも表現された名言です。
これは、田中角栄の先見の明と発想力を象徴する政策論であり格言と名言がつまっています。 田中角栄は、高度成長期の時代浮かれることなく、このまま成長が続けば「東京一極集中化」がおこると予見しています。そして、近い将来は超高齢化社会となり社会保障費が膨大なものになることも予測がついていました。 そこで、狭い日本の国土を有効に使うことで国民全体の所得を上げようと考えます。具体的には「地方にも高速道路を」「各県に飛行場を作る」「全国を新幹線で結ぶ」、つまり、様々な地方への移動手段を簡便にすることで、東京一局集中化をふせごうという目的でした。 そして、これは実際にすすめられ地方への移動が楽になることで、日本の国土を有効にという考えは実行されていきます。(現在でもその考えは引き継がれ、北海道までも新幹線で移動できるようになりました。) この理論は、非常に注目され政治家の書いた本としては異例の91万部を売り上げています。田中角栄の名言・格言も多く詰まっています。このように、奇抜なようで理論的かつ現実的な田中角栄の発想力と行動力は名言・格言となり「石原慎太郎」など稀代の政治家に強く影響を与え続けています。
いかがでしたでしょうか?田中角栄の生い立ちをご紹介しました。日本に大きな影響を与えた人物で、歴史の教科書では欠かすことのできない人です。たくさんの格言と名言を残した人でもあります。ぜひ、今回ご紹介した名言や格言をもとに田中角栄の人物像に触れ、人生の糧としましょう!