タコ部屋(納屋制度)とはどんな意味?
まずは『タコ部屋』とは何なのか知らない方といらっしゃると思いますので、解説していきたいと思います。タコ部屋とは、所謂”強制労働者”が泊まっていた部屋です。
もともとは、明治維新後に始まった北海道の開拓事業の中で生まれてしまった制度と言っていいでしょう。この制度は労働力が足らなかったため、囚人を労働力として当てられることになったことから始まりました。
朝から晩まで過酷な土木系の現場等で働かされ、寝泊まりする部屋には過剰な人数が収容されます。食事はついていますがそれも粗悪なもので、人の尊厳が失われるような環境で働かさせるというのがタコ部屋制度です。
タコ部屋は現在も存在するの?
明治維新以降に存在していたタコ部屋ですが、現代でも存在しているのでしょうか?所謂”歴史の中の話”と思われたタコ部屋は、姿を変えて存在しているともいわれています。実話や事件を含め詳しく見ていきましょう。
現代では闇金で返済できずにタコ部屋に行実際にく人がいる?
実際のところ、タコ部屋は『闇金で返済ができなかった人が行く末の場所』といわれていますが、現代でタコ部屋というのは法的にアウトでもあるため、表立ってニュースになることはありません。
しかし、闇金返済が間に合わず実際にタコ部屋のような環境で労働をしている人は現代も実在しており、ある64歳の男性は、約20年前に借金返済が1ヶ月遅れたことからタコ部屋に送られました。
この方は最初借りた5万円がトイチ(10日で1割)の利息が膨れ上がり返済できなくなり、現在はゴルフ場になっているという山間部に7月に連れて行かれタコ部屋労働の生活をしていたのです。
この他にもやはり闇金からの借金が返済できなくなり、タコ部屋に行った方がいます。一昔前の労働環境ほど厳しいものではなかったと言いますが、その環境は壮絶でした。
なんと週6勤務で2万円という給料で、あまりに多額な借金をしている人は手元に5000円しか残らない人もいたのです。しかし借金が多額でなければ環境を気に入り、返済後もそのまま働く人もいました。
寮完備・食事つきなどの求人がタコ部屋の場合も
さらに、現代では行ってみたらタコ部屋だったというパターンもあります。”寮完備で食事付き”という謳い文句に誘われ行くとそういった環境だったという場合があるようです。
現代のタコ部屋は社員寮?
現在はタコ部屋より「00寮」と呼ばれている所が多く、その原因は昔は借金返済ができないための労役的な物が多く今でいう「多重債務者」が送られていました。
(引用:借金のすべて)
- 1.日給 9,000円
- 2.期間 1ヶ月~
- 3.仕事 砕石場
- 4.寮、3食食事つき
このような条件で求人が出ており、社員寮と言う名の『タコ部屋』に連れてこられるようです。タコ部屋とは表現できない現代では、やはり社員寮として認識されています。
この場合日給9,000円は確かに払われるようですが、実際は寮費の管理費や家賃・食費等が差し引かれて手元に残るのは2,000円程度なのだそうです。
現在のタコ部屋の実話①:仕事はどんな仕事?朝から晩までの重労働?
ではそんな環境での仕事はどんなものなのでしょうか?こちらは約20年前の話ではありますが、それでも平成の現代にあった実話のようです。
仕事は朝8時から夕方日が沈むころまでやらされたような記憶があり、労働時間や法的労働条件などが通用する所ではありません。
(引用:借金のすべて)
あまりにも過酷な環境だったため、時間の感覚をはっきりと覚えていないようでした。さらに、食事休憩に関しても話しています。
3度の食事の後に30分くらいの休憩があるくらいで中には、暑さと、疲労、脱水症状等で倒れても寝かせられるだけで、何ら治療もなく労働者の中での話では「この現場の山中に何人が埋められている事やろ」等の会話を耳にすることさえありました。
(引用:借金のすべて)
現在のタコ部屋の実話②:食事はどんな感じ?
昔のタコ部屋での食事はとても粗悪なものだったそうです。朝は白米に味噌汁と漬物が少し付きます。昼は朝と同じメニューにめざしなどの軽いおかずが一品つくのみだそうです。
夜は週の半分が水っぽいカレーライスだったといい『まだ刑務所のご飯の方がマシなものが食べれる』とまで言われていました。
現在は人権の尊重に関する法律や個人情報保護法などの法律があるため、そこまで粗悪な食事を出しているわけではないそうです。
タコ部屋からは逃亡しなければ出られない?
タコ部屋に送られると言われているのが、借金を抱えて返せなくなった人が多いと言うことはわかりました。では、そんな中どうやったらタコ部屋から解放してもらえるのでしょうか?
闇金から借金をした場合、とてつもない利子をつけられる場合が多くあります。その場合どんなに頑張って返済し続けても結局は返しきれないと言う状況に陥ってしまうのです。
タコ部屋のようなところで働くようになったとしても、返済のため手元に残るのはほんの少しな上に利子は膨れ上がり続けます。そのため、解放ということはありません。
仕事がいつものように終わりタコ部屋へ戻ってきたときに班長から「明日の休みは食料の買い出しについてこいと言われた時に「チャンスが来た」と思って夜周りが寝静まるのを見て荷物は持てないので大切な物は特にないので有り金を隠して準備だけをして買い物に行ってどのように逃げるかを一晩中考えているうちに決行の朝がやってきました。
(引用:借金のすべて)
解放されるには自分で逃亡するしか道はないと言います。ある方の実話を見てみても、逃亡してなんとか解放されたという方がいました。
買い出しに行ったときに更なるチャンスが訪れ、大阪行きの電車にとび乗る事に成功して20数年前の脱走が成功したことで今があります。
(引用:借金のすべて)
現代、タコ部屋は減ってきている?
現代は個人の尊厳が法で守られているということもあり、このようなか小部屋が減ってきているというのは事実です。
しかし、社員寮がタコ部屋とかしているような噂話もあるため、完全に消えたというわけではないというのが事実といったところではないでしょうか。
リアルカイジのタコ部屋?朝日建設事件という実話
タコ部屋が減ってきているのは事実なようですが、ヤクザも関わった朝日建設事件という事件で、この会社がタコ部屋のような環境で従業員を働かせていることが発覚しました。
発覚したのは、従業員との口論で殺人事件が起き、その事件による遺体が発見されたことからでした。朝日建設という会社は山梨県に会社があるのにかかわらず、大阪のあいりん地区にて求人活動をしていたそうです。
集められた従業員は家賃等様々差し引かれて、日当実質1,000円で働かされていたと言います。6畳の部屋に4人が寝泊まりし、食事はでますがそれも粗悪なものだったそうです。
さらに給料が未払いになることがあり、労働福祉センターに対して100件以上の苦情が寄せられたのです。まさにリアルカイジのような世界が実話として語られているようです。
遊郭には女郎のタコ部屋があった?
遊郭にもタコ部屋のようなところがあったと言われています。もともと遊郭は売られたりなどして店で働かざるおえなくなった女性たちが体を売っている店です。
そんな女郎の中にもランクがあり、売れっ子であれば1人づつに部屋を与えられるようになっています。しかし、まだまだ売れっ子とは呼べない立場の遊女たちは仕事場でさえ個室を与えられることはありませんでした。
そんな遊女たちは、カーテンやつい立てのようなもので仕切られた場で身を売ることになります。そんな場所であったとしても、相手の男性に多くのお金を落としてもらいたいがために長時間居続けさせようとしたのです。
居続けが続くと当然、支払額は雪だるま式にふくらんでいく。息子の場合は親に勘当される事態になりかねなかった。一方、遊女のほうは客を籠絡するために性技と手練手管のかぎりを尽くして居続けさせようとした。
(引用:BEST T!MES)
さらには相手の男性をより一層虜にするために、様々な手を使っていました。その過酷な労働環境や、縛られたような環境はまさに遊女にとっての”タコ部屋”と言えるようなものだったのです。
男の心をつなぎとめるため、二の腕に「〜命」などと彫り物をすることもあった。「〜」には、惚れた男である情男(いろ)や、金づるの客の名が入る。情男と別れたり、ほかの金づるができると、それまでの彫り物は灸を据えて焼き消したが、ひどい痕となった。彫り物は女にとって過酷な慣習だったといえよう。
(引用:BEST T!MES)
タコ部屋の起源は?名前の由来は何?
そもそも”タコ部屋”の起源や名前の由来は何なのでしょうか?北海道で始まったと言われていますが、なぜ『タコ』なのでしょう?語源についても解説します。
北海道で明治時代に行われていた囚人労働が起源のタコ部屋
冒頭で簡単に開設したように、タコ部屋制度は明治時代の北海道開拓事業の中で生まれたものでした。元々は囚人が駆り出された労働で、その過酷すぎる労働環境の名残と言われています。
土工部屋のタコ労働であり、本州方面から募集の名目で連行してきた労働者を、山間部や奥地の土工部屋に収容し、道路開削・鉄道建設・河川改修といったさまざまな土木事業に半強制的に駆り立てたのがタコ労働における特徴であった。
(引用:Wikipedia)
囚人の強制労働は罪に問われることなりましたが、それに代わり土木部屋という『タコ部屋』が与えられる作業員が全国から募集されるようになりました。
募集され労働が開始されると、囚人が以前受けていた扱いと同じような対応で『タコ部屋』に収容され、不法監禁や暴行・酷使・虐待が日常茶飯事に行われていたのです。
タコ部屋の語源は?①:タコは死ぬまで岩から離れない
語源は諸説ありますが、1つ目が『タコは死ぬまで岩から離れない』というものです。タコ部屋で暮らしを余儀なくされる土工夫も、必死に仕事をさせられ部屋から離れることができないというところから来ています。
タコ部屋の語源は?②:タコは自らの足を最後の食料にする
語源の2つ目は『タコは自らの足を最後の食料にする』というものです。首が回らなくなった借金を、自らの肉体を代償にして労働力として切り売りしていく様が、タコの様子に例えられたそうです。
タコ部屋の語源は?③:他の地域から、斡旋業者により他人に雇用される(他雇)
語源3つ目は『他の地域から、斡旋業者により他人に雇用される(他雇)』というものです。北海道の開拓の際、東北地方などの地域から斡旋業者を使い、甘い言葉で他雇用させられることから来たと言われています。
タコ部屋の語源は?④:労働者が糸の切れた凧のように逃亡するから
語源4つ目は『労働者が糸の切れた凧のように逃亡するから』というものです。過酷な状況に置かれる労働者たちは、突如逃亡しいなくなることがあったと言います。それが凧の糸が切れた様子と重なったのです。
タコ部屋の実話と有名建造物
ここからはタコ部屋と過酷な労働環境で作られた有名建造物を紹介します。現代も有名な建造物にあった建設背景はどのようなものだったのでしょうか?
タコ部屋により建設された建造物①:常紋トンネル
タコ部屋により建設された建造物1つ目は『常紋トンネル』です。常紋トンネルは1912年(明治45年)に北海道の北見の常呂群と遠軽側(旧生田原町)の紋別群群からつけられた北見峠に通られたトンネルです。
人気の全くない峠を繋げるために、標高約347m・全長507mのJR北海道石北本線鉄道トンネルとして約36ヶ月の期間で作られました。労働者は全国から集められ、まさにタコ部屋労働を課せられたのです。
信じられないような実話ではありますが、常紋トンネルでの労働環境は極めて過酷なもので、着工から工事完了までの36ヶ月の間に100人を超える死者を出しています。
施工当時、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく体罰を受け、遺体は隧道や現場近くの山林に埋められたといわれる。
(引用:Wikipedia)
トンネル開通工事では、度々トンネル内で急停車事故が起きていました。その事故での死者も多くいるようで、トンネル完成後しばらく経った1959年に供養のための歓和地蔵尊が作られたそうです。
1970年になって人骨が出てくる
多くの死者を出しながらも1914年に完成された常紋トンネルでしたが、1968年に起こったとかち十勝沖地震でトンネル内の障壁画崩れたことをきっかけに改修工事が行われました。
その改修工事の際、損傷のある頭蓋骨が発掘たという実話があります。常紋トンネル建設の際、現場監督の指示に従わなかった人たちはスコップで撲殺されていたという噂が兼ねてからありました。
発掘された頭蓋骨は、そのような形で撲殺された人だと言われており、その後の調査でも10体の遺体が発見され、その供養のために「常紋トンネル殉職者慰霊碑」が石北本線を見下ろす形で作られました。
タコ部屋により建設された建造物②:名雨線(深名線の一部)・雨竜第1ダム
タコ部屋によって建設された建造物2つ目は『名雨線(深名線の一部)と雨竜第1ダム』です。どちらも過酷な状況で建設を強いられていますが、雨竜ダムは連合国軍の捕虜を強制労働者として利用したと言います。
過酷な労働に加え、冬になるとマイナス40度にもなる日本でも極寒の地域なため、数多くの犠牲者が出た円説工事となりました。
駆り出された労働者は捕虜だけでなく、本州やアジアからの出稼ぎ労働者もいました。日本でもっとも広い人工湖でもあり、労働者はのべ600万人にもなったそうです。
名雨線工事と雨竜第1ダムの建設で犠牲となった人たちを供養するための慰霊碑も建てられています。しかし名雨線はすでに廃線となっているとのことです。
タコ部屋により建設された建造物③:越川橋梁(根北線)
タコ部屋によって建設された建造物3つめは『越川橋梁(根北線)』です。越川橋梁は北海道にあるコンクリート製の鉄道橋で、周囲数km四方に村はおろか民家もない山間部に作られたものです。
多くのタコ部屋労働者が雇われており、建設期間中に11人もの人が命を落としています。11人が犠牲となって作られた越川橋梁でしたが、戦時下での物資欠乏のため橋が完成する前に根北線が廃止してしまいます。
そのため、越川橋梁は完成間近のところで工事は停止、この橋が使われることはありませんでした。犠牲が出たのにも関わらず使用されなかった悲しい歴史もありますが、現在は国の有形文化遺産に登録されています。