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宮城

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寺西裁判
H.T.記

 司法権の任務は、憲法が定めている基本的人権を保障することにあります。そのため、裁判官は他のいかなる権力や圧力にも屈することなく、人権保障の体系である憲法を頂点とする法に従ってのみ独立に職権を行使することが求められています(「裁判官の職権行使の独立」)(憲法76条3項)。
 裁判官の独立とうらはらの問題として、裁判官は中立・公正でなければならないという要請があり、積極的に政治運動をすることが禁止されています(裁判所法52条)。

 しかし、裁判官も当然憲法が定める表現の自由(21条1項)は保障されています。寺西裁判では、裁判官の表現の自由と裁判官の中立・公正の要請は衝突するのか、衝突するとしてその限界はどこにあるのかが問題になりました。

 仙台地方裁判所の寺西和史裁判官が任官して6年目に入った1998年当時、いわゆる「組織的犯罪対策法案」が国会で審議されていました(1999年成立)。この法案は、組織犯罪捜査の手段として、電話、ファックス、メールなどの通信の傍受を可能にするもので、検閲禁止(憲法21条2項)やプライバシーの権利(同13条)を侵害するのではないか、大きな問題になっていました。法案は、裁判官が令状を発布した場合にのみ傍受が許されるとしていました。これに対して同裁判官は、裁判所の令状審査がほとんど検察官の請求どおりに行われているという実態認識から、法案の傍受令状の審査機能を疑問視していました。そして、「組織的犯罪対策法」に反対する市民集会で、一般参加者席から、「パネリストとして参加する予定だったが、事前に裁判所長から参加しないよう警告を受けた。仮に法案に反対する立場で発言しても(裁判所法52条で禁止している)『積極的な政治運動』にあたるとは考えないが、パネリストとしての発言は辞退する」旨発言しました。仙台高等裁判所は、この発言は同法違反だとして懲戒処分(戒告)にしました。この処分に対して、同裁判官は表現の自由を侵害する違憲の処分だとして最高裁判所に即時抗告しました。

 最高裁判所は、大法廷判決で、(1)裁判官は外見上も中立・公正を害さないよう自制すべきである。私人としての行為であっても政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがす。(2)裁判官の積極的な政治運動を禁止する目的は、裁判官の独立・中立・公正を確保し、国民の信頼を維持することにあるから正当であり、禁止により失われる表現の自由という利益の方が小さいので、禁止は憲法に違反しない。(3)本件発言は参加者に対して法案は問題が多いというメッセージを言外に伝える効果を持ち、「積極的に政治運動をすること」に当たり、戒告が相当だという判断を示しました。5人の裁判官の反対意見があります。

 この判決に対する批判は、上記の反対意見も含めて、次のとおりです。(1)憲法で定めているのは「裁判官の職権行使の独立」のみである。私的な行為にまで「外見上の中立」とか「国民の信頼」は定めていない。それらを持ち出すと、国会の多数派や行政府の意見に従順で無批判な裁判官であることを強いることになる。それは人権保障という司法の役割が果たせなくなることを意味し、現に弊害が出ている。ドイツなどヨーロッパの多くの国では、裁判官も反核運動や環境問題などで市民と同じ目線で一緒に活動したり、労働組合に加入してデモに参加することなどは当然だとされている。裁判官も市民的自由を行使しないと、裁判官である以前の「自立した個人」を形成できない。そのうえで、裁判官が職権を行使する場面では「独立」して法の解釈の説得力を鍛え上げ法に従うこととこそが「裁判」に対する真の国民の信頼を獲得する道である。したがって、(2)多数意見がいう「積極的な政治運動」を禁止する目的は正当とはいえず、禁止は裁判官の表現の自由を侵害して違憲である。(3)「言外の効果」まで含めて「積極的な政治活動」と認定するのは、禁止の範囲を広げすぎる。

 寺西事件は、社会から隔絶されている裁判官像、さらには、今も当時と変わらない令状審査の実態を鋭く告発しています。

<コメント>

憲法に忠実な寺西裁判官

西村正治(弁護士・「自由で独立した裁判官を求める市民の会」事務局長)

 寺西和史裁判官というのは、別に突飛な人ではない。憲法を大切に考え、憲法に書かれていることを忠実に行おうとしているごくごく普通の裁判官である。

 裁判官は、民事事件担当でも土曜休日は、交代で、勾留決定をしたり令状審査をすることになっている。寺西さんは、勾留請求却下率が他の裁判官より高いという。裁判官の判断で人を拘束する以上、勾留の要件や必要性を厳格に判断しなければならない。それが裁判官の当然の使命だと考えて実践しているそうである。その寺西さんから見て、他の大部分の裁判官はそのようには見えない。令状審査では、警察官のいいなりに令状が発付されているのではないか。裁判官の令状審査で過剰な人権侵害の抑止を期待するのは、無理ではないか。日々の仕事の中で感じた、令状審査に関する専門的意見を、寺西さんは、朝日新聞の投書欄に寄稿した。これは裁判官からの投書として話題を呼び、他の裁判官からの反論の投書や市民からの再反論が続くなど、議論がわき起こった。 そのころ、盗聴法に反対する弁護士を中心とした市民集会が企画され、投書で話題の寺西さんに令状審査についての専門的意見を述べてもらおうとした。そうしたところ、どういうわけか最高裁にこの話が伝わり、仙台地裁所長が寺西さんをよびだし、集会で発言してはいけないと忠告した。寺西さんは、予定していたパネラーとしての発言はやめることにしたが、礼儀上、発言できなくなった理由を一言説明する必要があると考え、聴衆席からその説明のみを行った。これが事件の顛末一部始終である。

 これがどうして問題となるのか、市民の目から見てどうにもわからなかったが、最高裁大法廷多数意見は、積極的に政治運動を行ったことにあたるとして、戒告処分としたのである。しかし、5名の反対意見があった意味は大きく、最高裁の硬直した姿勢の変化の予兆が感じ取れるものであった。戒告処分を受けたことで、4年後の再任を危ぶむ声もあったが、2003年3月、寺西裁判官は10年の任期を終え、無事判事として再任された。 ちなみに、周防監督の「それでもボクはやってない」」で交代前の裁判官(修習生に刑事裁判の目的は「一人の無辜も罰しないこと」と教えていた人)が、寺西さんにそっくりだと思ったのは、私だけでしょうか。