お気に入り記事の保存はアプリが便利!

logo_1101

2019-08-05

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・趣味としてということならば、
 ぼくはオカルトは大好きだったし、
 いまも、否定してなくしてしまおうとは思わない。 
 正直に言って、20歳代のじぶんが考えていたことは、
 もっとずっとオカルト寄りだったと思う。
 空飛ぶ円盤(いまはUFOと言ってるみたいだけど)は、
 ない可能性もあるけれど、あると思いたかった。
 後にインチキだったと判明する空飛ぶ円盤の写真や、
 アメリカの空飛ぶ円盤に関する資料などが、
 ときどき、さまざまなかたちで発表されて、
 「あるかもしれない」という期待を煽るのを、
 なんとなく「いいな」という気持ちで見ていた。

 オカルト的な情報を肯定することは、
 なんとなく「夢がある」という意味をも含んでいた。
 ネス湖の恐竜ネッシーも、ヒマラヤの雪男も、
 超能力者ユリゲラーも清田くんも、なんなら地底大陸も、
 さらにはブルース・リーの空手の強さまでも、
 「夢がある」ということで大好きだった。
 そこらへんのことを簡単に科学で否定する人については、
 「否定する証拠もないのに否定することが非科学的だ」
 とかいうロジック(?)で、わからず屋扱いしていた。
 いまのような情報過多の時代の人たちには、
 ずいぶんこどもっぽい成人だったと思われるだろうが、
 恥ずかしながら、言い返すことはできない。

 それから半世紀も生きているうちに、
 いろんなものごとが少しずつわかってきて、
 ほんとうのこととそうでないことの区別が、
 多少なりともできるようになってきた。
 そして、いまさらあのころのじぶんについて思うのは、
 「オカルトとか、奇跡とか、精神主義的なことだとか、
 現実の体系の外側にあるものを信じないと、
 じぶんの無力さに耐えられなかったのかもなぁ」
 というようなことである。
 オカルトに象徴されるもののなかにこそ、
 「弱きボクラ」の「勝つ可能性」を見てたのだ。
 当時のじぶんに、教えてやれることがあるとしたら、
 「とにかく、もっとよく見ろ。」かなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ファンタジーは、力ないものの糧であり、武器なんだよね。


ここ1週間のほぼ日を見る コンテンツ一覧を見る