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【社会】

<終わらぬ夏 戦後74年>(上) 旧日本軍に接収され 補償も返還もないまま

「戦後補償は何もされていない」と語気を強める山田善照さん=沖縄県石垣市の自宅で(吉原康和撮影)

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 「戦争目的で国が接収した土地は、戦争が終われば元地主に返還するのが原則。その地を自衛隊施設建設のため市有地と交換するなんて、論外な話だ」

 旧石垣空港に近い沖縄県石垣市内の自宅で、旧海軍平得飛行場用地地主会の元事務局長山田善照さん(91)は怒りをあらわにする。

 戦時中、石垣島には三つの陸海軍の飛行場があった。山田さんの土地は、海軍平得飛行場の南北に通じる滑走路建設予定地のほぼ中央部。実際に完成したのは北東滑走路だけだった。

 平得飛行場の用地は、沖縄戦が始まる前の一九四三年夏に接収された。土地代の支払いは、現金や地方銀行八重山代理店への定期預金証書または当座預金証書とされたが、預金証書は終戦で凍結された。「戦後、証書を持っていた人も避難小屋で生活し、海軍省も解体したため、預金証書は現金化されず、紙切れ同然となった」と振り返る。

 平得飛行場用地は戦後も国有地のままで、地主らは五二年ごろから、沖縄を統治していた米国民政府と賃貸借契約を結び、借地料を払って耕作しながら土地の返還を求めてきた。

 八七年、戦後に石垣空港がつくられた北東滑走路部分を除く国有地約三十七ヘクタールは耕作者らに払い下げられ、山田さんの農地も戻ってきた。

 二〇一三年三月、白保(しらほ)地区に新石垣空港が開港。平得にあった石垣空港は廃止となったが、跡地となった国有地は今も、元地主の下に返っていない。「空港は消滅したのだから、国は地主に残りの土地を返還し、それができないなら、何らかの形で補償すべきだ」と山田さんは訴える。

 旧日本陸海軍は沖縄戦直前、沖縄本島と先島(さきしま)諸島に十六の飛行場を造った。土地の多くは強制的に接収した。用地問題の解決策として国と県は二〇〇二年、地主会が国の補助金を得てコミュニティー施設などを建設する団体補償案を提示。九地主会のうち五地主会は受け入れたが、平得や白保などの四地主会は個人補償などを主張し、解決に至っていない。

 四五年八月十五日、十七歳だった山田さんは石垣島を守る部隊の通信兵として、島中央部の於茂登(おもと)岳(標高約五二五メートル)山中で終戦を迎えた。日本軍の軍命で避難した住民がマラリアで大量に死亡した地でもある。

 その於茂登岳近くで今春、ミサイル基地部隊を擁する陸自駐屯地の工事が強行された。「石垣島に『軍事』基地はいらない」。山田さんの視線の先にあるものは、戦後一貫して保持してきた基地のない島の姿だ。

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 昭和、平成、そして令和と時代は移ろいゆくが、変わらないのは、敗戦から七十四年続く「戦後」だ。だが、戦争の記憶は風化し、「戦後」の在り方を否定する動きも急だ。自衛隊配備計画が相次ぐ沖縄県の先島諸島の現場から「戦後」の意味を問う。 (編集委員・吉原康和)

 

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