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【社会】

<終わらぬ夏 戦後74年>(中) 苦闘の開拓地、守りたい

桑江良成さん(左)のパイナップル畑で話を交わす桑江さんと義弟の喜友名朝昭さん。後方の森のすぐ後ろが陸自駐屯地の建設予定地=沖縄県石垣市で

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 「畑は石ころだらけで撤去するのに難儀した。畑作業が軌道に乗るまで十年ぐらいはかかった」

 戦後、米軍に軍用地として家も畑も接収され、行き場を失い、沖縄本島の沖縄県北谷(ちゃたん)村(現北谷町)から約四百キロ離れた石垣島に移住してきた石垣市真栄里、農業喜友名朝昭(きゆうなともあき)さん(67)は、入植当時のことを昨日のことのように思い出す。

 喜友名さんが両親やきょうだい、親戚ら百人を超える人たちと集団で入植したのは一九五七年十二月二十三日。五歳だった。

 琉球政府による最後の「計画移民」に応募した北谷村、玉城(たまぐすく)村(現南城市)などの二十戸で、先遣隊として石垣島中心部にそびえ立つ「於茂登(おもと)岳」のふもとに入った喜友名さんの父、朝祐さん(故人)らが郷里のトタンぶき家屋を解体して運び、仮宿舎を建てて家族を迎えた。入植者には一戸あたり田畑二町歩、建築補助金一万五千円が提供された。

 最初に植えた農作物はサツマイモで、「自給自足で、食べるのがやっとだった」。しかし、於茂登岳のふもとの田畑は水が豊富で、市街地に近いという利点もあり、七〇年ごろからサトウキビやゴーヤーなど野菜作りを始めた。今では集落全体でサトウキビを年間千トン前後出荷するなど、於茂登地区は野菜の名産地として不動の地位を築いた。

 だが、生活も安定してきた約四年前、降って湧いたような陸上自衛隊のミサイル部隊配備構想を知り、居ても立ってもいられなくなった。

 建設予定地は、喜友名さんらが心血を注いで切り開いてきた於茂登集落から北へ約一キロ。「配備されるのは移動式のミサイル部隊で、基地は当然真っ先に標的になる」と喜友名さん。

 建設予定地の境に、パイナップル畑とサトウキビ畑約六ヘクタールを所有している桑江良成さん(80)も「こんな島のど真ん中に自衛隊の駐屯地を造っていいのか。大きな山はあっても、川はない。地下水の汚染も心配だ」と憤る。桑江さんも四一年、沖縄本島の美里村泡瀬(現沖縄市)から入植してきた開拓移民の一人だ。

 建設予定地周辺にある於茂登、開南、川原、嵩田(たけだ)の四地区はいずれも開拓移民の集落で、石垣市在住で元琉球大学教授の川平成雄氏は力説する。

 「戦後の計画移民に応募した人々は、米軍に土地を収用されて生活の場を失い、移民を選ぶしかなかった。国策に翻弄(ほんろう)されてきた被害者でもあるが、苦闘の中で、石垣島の生産を支えてきた開拓の『地』を、基地建設の『地』にしてはならない」

<八重山諸島への開拓移民> 1945年の沖縄戦終結で米軍統治下に置かれた沖縄本島では戦後、多くの土地が米軍の軍用地として接収される一方、旧植民地や疎開先の日本本土、台湾からの引き揚げ者が急増、その数は14万人(50年現在)に達した。過剰人口のはけ口として、琉球政府が「海外移民」とともに計画したのが八重山諸島への開拓移民だった。

 開拓移民には、希望者が自力で移住する「自由移民」と一定の優遇措置で募集する「計画移民」があった。「計画移民」は戦前にも石垣島や西表島の一部で行われたが、本格化したのは52年以降。石垣島には57年までに3000人前後が入植し、農業を中心とする島の経済発展を支えた。

 

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