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【社会】

<つなぐ 戦後74年>原爆の「地獄」発信 被爆日系3世 広島・平和記念資料館で英語ガイド

米国人観光客に自身が被爆時に着ていたシャツについて説明する荒井さん(右)=広島市の広島平和記念資料館で

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 この春、四年半ぶりに全面リニューアルした広島平和記念資料館(広島市中区)で、英語のボランティアガイドをしている米ハワイ生まれの日系三世の男性がいる。同市南区の荒井覺(さとる)さん(84)。十歳の時に広島で被爆した。「原爆の恐ろしさを世界の人に知ってほしい」と、放射線ややけどの後遺症が残る体で伝え続ける。 (長竹祐子)

 ガラスケースに展示された子ども用の白い半袖シャツ。父親が左胸の名札に墨で書いてくれた部分が熱線で焼け焦げている。「it’s mine(それは私のシャツです)」。荒井さんが真剣に見入る米国人女性に話し掛けると、女性は目を丸くして驚いた。

 荒井さんが案内する人の半分以上は外国人だ。左頬と左腕、膝の裏などに残るやけどの痕が痛々しい。

 荒井さんが家族と共に父親の実家のある広島に来たのは三歳。国民学校の五年生だった一九四五年八月六日、空襲による延焼を防ぐため事前に取り壊された建物の場所で、薪にする材木を拾っていた時に被爆した。爆心地から一・七キロ。閃光(せんこう)が目に入り、慌てて親指で耳を、残りの指で目を覆ったが、爆風で飛ばされ失神した。

 気付くと、ばい煙で真っ暗になったがれきの中を大勢の人が逃げ惑う足音が聞こえ、「地獄に来た」と思った。自分の左頬を触るとぬるっとしていた。ふくらはぎを大きく引き裂かれた男性がトラックにしがみついていた。防空壕(ごう)にも、ぼろ切れのような皮膚が垂れ下がった人が大勢いた。

 その時に着ていた荒井さんのシャツが、今回のリニューアルで初めて常設展示された。終戦後の四五年十月、原爆の影響に関する日米合同調査団が学校に検診に来た際に求められて提供したが、戦後四十年を過ぎた八七年に調査団の一員だった石川浩一医師が返還。荒井さんが二〇〇五年に資料館に寄贈していた。

 荒井さんは戦後、二十一歳で渡米。ロサンゼルス郊外で庭園業や自動車修理業を営みながら、現地で出会った被爆者たちと被爆の実態を伝え、在米被爆者の権利を取得する活動に尽力した。九八年に父親を米国でみとった後、妻と広島市内で暮らしている。二〇〇七年から資料館でボランティアガイドを始めた。

 梅雨の晴れ間、荒井さんは広島平和記念公園を歩いていると、「これくらいの陽気ならいいけど」と原爆ドームに目をやった。この日の広島の最高気温は二二度。「体全体の十分の一くらいがやけど。皮膚や毛穴がつぶれていて発汗ができんのです。特に夏場は、体調が悪くなるのでここには来られない。ガイドもできない」。今月六日の平和記念式典も毎年、家のテレビで見るという。

 「体に放射能の影響が残り続ける恐ろしさを、できる限り世界の人に伝えていきたい。わが国も最初の被爆国として世界に訴えてほしい」。普段は寡黙な荒井さんの言葉が熱を帯びる。「核保有国の指導者は核の本当の恐ろしさを知らないので、発射ボタンを押さないでほしい。知れば、オバマ前米大統領のように核廃絶への努力をするのではないか。この美しい地球を壊滅させないために」

 

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