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2019-08-04

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・また、あらためて紹介することになると思うのだけれど、
 『人生をしまう時間(とき)』という映画を観た。
 まだ完成版の手前なのかもしれないが、とてもよかった。
 たんたんとしているのだけれど、観終わったあとに、
 こころの深いところが深呼吸しているような映画だった。

 80歳の小堀鴎一郎医師と在宅医療のチームが、
 どういうことをしているか、200日密着取材した記録だ。
 いただいたビラには、こんなことが書いてある。
 <東大病院の名外科医がたどりついた最後の現場。
 それは、「在宅」の終末期医療だった。>
 たぶん、これくらいの紹介では、まったくわからないな。
 やや重苦しそうなドキュメンタリーを想像するだろう。
 もともとぼくも、観ないかもしれないと思いながら、
 このコンテンツの録画されたDVDを受け取ったのだ。
 しかし、観はじめたらやめられないおもしろさだった。
 末期医療だとか介護だとかの社会的テーマは、
 映画のなかで、ことばとしてほぼ語られていない。
 だいたい、ナレーションも音楽もなかった。
 登場人物、主に医師と患者、そしてその周囲の人たちの
 コミュニケーションするようすだけが流れていく。
 ここに登場した患者さんは、みんな命を終える。
 つまり、全員が死ぬ映画なのだけれど、
 それは悲しみでも苦しみでもないと思えるのだ。
 人の「お終い」が、まるごと、率直に描かれている。
 暗くしようともしてないし、ことさらに明るくもない。
 ただ、登場する人たちが医師も、患者もその家族も、
 みんな率直で穏やかで、「いい人」ばかりなのだ。
 まるで、「いい人」ばかりを集めて撮ったかのようだが、
 たぶん、そういうことではないだろうな。
 ぼくの我田引水気味の感想なのだけれど、
 人は、ほんとはみんな「このくらいいい人」なのだ。
 ちがう切り口で見つめたらそうはいかないかもしれない。
 でも、この映画のなかのふつうの人たちは、
 ほんとにそれぞれに「いいなぁ」と思わせてくれるのだ。
 たぶん、死に近いところにいながら、
 いい導きのもとに生きることを考えた人たちなのだろう。
 次々に死んでいく映画なのに、なんと不思議なことに、
 ぼくの心はとてもあたたかくなってしまったのだ。
 きりがないので、この話は、またあらためてね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
映画の元はテレビの番組だった。テレビ、やるもんだなぁ。


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