7月発売のミニアルバム「WITNESS」の一曲目である「sands」。
先日より全国のラジオでも少しずつ流して頂いていて、そのオンエアの様子を昨日聴いたところ、穏やかなCMとジングルを引き裂くようなイントロに我ながら「最高だ!」と興奮してしまった。
そんな「sands」、楽曲そのものを書き始めたのは昨年の9月中頃でアルバムの中でも結果的に一番最後に書いた楽曲なのだが、何年も熟成したかのような古くから傍にある気持ちを込めている事から、個人的にいつ書いたかというのを厳密には把握できていない。
聴いてくれる人の数だけ楽曲の解釈があるだろうし、人によってはこれから書いていく話はノイズでしかないかもしれないが、どういう背景の下にこの楽曲があるかを今日は書いていこうと思う。
これから書いていく身の上話は今後「sands」を聴くうえで頭の片隅、中心、蚊帳の外、どこに置いてもらっても構わない。
2010年のクリスマスイブ、あるクラスメイトの母親から電話があった。
そのクラスメイトはその年の6月から学校へ来なくなり、そしてそれと同時に毎日放課後にその子の家へノートを持っていく生活が始まった。
家へ行ってもその子には会えず、代わりにその子の母親が迎えてくれて、通ううちに色んな話をする仲になった。
そうこうして、たまにその子やその母親から電話があって少し話したり、12月の半ばには3人でようやく会って話す事も出来た。
3学期になれば、また少しずつ学校に来れるんじゃないかと、その時は思っていた。
そこから10日もしない間にその日はやってきて、突然鳴った電話に応えた。
先ほど学校へ退学届を提出してきたとの事だった。
「そうですか」と答えると「有難うね」と言われて、そこから連絡が取れなくなった。
元気である事は知っているものの、話したのはそれが最後である。
生意気にも「救えなかった」と思った。
それと同時に、空っぽになった感覚がした。
その時、あの子やその母親の拠り所になれているかもしれない事を、自分の取り柄にしてしまっていた事にも気付いてしまった。
「悩みを打ち明けてもらえる唯一の人」と思い上がり、なるべく何度もしたくないであろう話を聞きだしたり、却って追い詰めるような真似をして迷惑を掛けてしまっていた事が度々あった事に初めて気が付いてしまった。
情けなかったし、これからどうすれば良いのかが一切分からなくなった。
胸を張れる取り柄が欲しかったし、代えが効かない人になりたかった。
だけど部活に入ってもすぐ辞めてしまうし、何か始めても熱心に続けられない。
ノートを届けて話をするだけの生活を続けていく中で、ようやく何かが見つかるんじゃないかと知らず知らず期待していたようだが、結局そこには何も生まれなかった。
この年の夏、高橋優さんと星野源さんがメジャーデビューしている。
リビングに置いてあった妹の雑誌を暇つぶしに読んでいると2人の名前があり、試しに聴いてみると凄く良かったのでCDを買ってよく聴いていた。
2人とも一人で、アコースティックギターを弾いて歌っている。
祖父母の家でボロボロのアコギを発見し、引き取ったものの使っていなかったそれを引っ張りだして、気が向いた時に夜な夜なコピーしていた。
そんな気まぐれな習慣も、年末には半年を迎えていた。
2011年になった。
ミュージシャンが口々に言う「思いを歌にしている」。
誰にも言えない事が急速にかさ張っていった。
当時聴いていたラジオのオーディションイベントの受付も始まった。
色んな事が重なって、本当に何となく、そこから曲作りを少しずつ始めた。
当時、何をしたわけでもなく、学年の一部の何人かから嫌われていた。
たまに嫌味な小言を言われたり、そういうちょっとした事がぽつぽつとあった。
うちは中高一貫でそんな生活も4年目になり、すっかり慣れていた。
そのはずだった。
放たれる一言がいつもより重たく感じて、引きずるようになっていた。
忘れられるまでの時間がいつもより長く、消化しきる前に次の言葉がやってきて、募っていった。
退学していったクラスメイトの事が頭をよぎったりして、家に帰っても気が休まらなかった。
そして毎日、朝起きる度に手のひらや甲にイボが増えていった。
春休みになる頃には手のほとんどをイボが占めていて、何をするにも痛みを伴っていた。
学年が上がっても、相変わらず心は脆いままで消化出来ずにいた。
皮膚科に行って液体窒素で手を毎週焼いても痛いだけで何も変わらず、オーディションに応募する勇気も湧かず。
学校を休む勇気もないから、せめて一時間目だけサボろうとかやっているうちに段々遠ざかっていって、学校へ行かない日も少しずつ出てきた。
すると今度は先生が家に来て三者面談、大事になった事が怖くなってまた学校に行くも嫌な言葉を受け止めてと、拠り所がなくなっていた。
そんな日々が半年続いたある日の深夜、テスト勉強をしている時に爆発した。
何の為の勉強とか、何の為の苦しみなのかと分からな過ぎて無性に腹が立つ。
急に取り柄が欲しくなった。
今すぐに代えが効かない人になりたくなった。
勉強を止めて、家の近くのコインランドリーにアコギを持って行き、オーディションに送れなかった曲を録った。
弾く度にイボが痛くて、それも腹立たしかったから録り直しもせず、早々に録り終えたそれと印刷した履歴書を添えて、翌朝には2つのレコード会社へ送った。
2週間後、テストの答案返しの際に知らない番号から電話があった。
授業が終わって折り返すと、先日デモを送ったレコード会社の社員であった。
取り柄が出来た。
代えが効かない人になれた。
未来が約束された。
電話を切ってから暫く、そんな3つの気持ちだけしか心に無かった。
そして嘘のような話だが、この日を境に両手を覆っていた大量のイボが日に日に剥がれていったのだった。
悩みや汚れ、あらゆるマイナスが落ちていくのを目視しているようだった。
そのレコード会社に育成という形で所属する事が高校卒業の数ヶ月前に決まり上京。
ゴールテープを切ったような面持ちで、スタートラインに立っていた。
歩くだけで、約束された未来へ辿り着けると本気で思っていた。
次があると思っているから、何度でもチャンスを逃す。
次があると思っているから、頑張る量が足らない。
次があると思っているから、只待っているだけ。
そのわりには自分を「若き天才」などと勘違いしているから、分からない事があっても聞き返せない。
突然の社会にそんな状態で飛び込み、案の定鳴かず飛ばずで3年が経った。
その頃にはすっかり不信感を抱き合っていて、最悪の状況だった。
2015年の春、恵比寿駅前のカフェに呼び出された。
4時間ほどの話の末に「あの曲は17歳で書けたという事が凄いのであって、もし今20歳の君が書いたと聞いても何も思わないよ」と言われた。
あの時欲しかった取り柄をくれた人に、その取り柄を剥奪された。
数年前のクリスマスイブに戻ったようだった。
またもや知らぬ間に思い上がっていたらしい。
数ヶ月後に契約が切れた頃、大学3年生になっていた。
何をするにもやる気が起きなかったし、何をすれば良いか分からなかった。
同じような事を最近まで言っていた同級生が、同時に就職活動を始めだしていた。
辿り着きたかった未来にもし辿り着けていたとして、そこではどんなアルバムを作っただろうか。
それを再現してから就職しよう、そう決めて悔いを残さないように再び曲作りを始めた。
DTMソフトも買って、編曲も分からないなりに始めた。
そこから編曲も含めて初めて出来たのが「雨降る夜にさよならを」だった。
着々と未来を閉じる為の曲が出来ていく。
その度に楽しくなっていったし、自分がやりたい事が分かったし、それには何が必要なのかを考え始めた。
誇らしげになっていったし、応援してくれる人の数も増えていった。
2016年の7月、アルバムが完成したのに曲作りを続けていた。
8月にそのアルバムを発売したのに、9月には次のアルバムの制作が始まった。
翌年2017年の5月には、そのアルバムに「WEAKNESS」と名付けて発売して、数ヶ月後の夏にはまた新曲を出した。
次がないと思い続けていたら、諦めていたルートに戻ってきていた。
このまま行けば、諦めていた未来にも辿り着けるんじゃないかとも思った。
その感覚が正しいのかどうかは置いておいて。
ふとそんな希望が見えて、忘れまいと書いたのが「sands」である。
今、何の迷いもなく自分の音楽に胸が張れている。
欲しかった取り柄を無事に手に出来た証拠だと思う。
その欲しかった取り柄は紛れもなく次もない、何もない自分から生まれたものだ。
きっとその事実はこれから何度も自分を助けてくれるだろうし、もしかしたら誰かの役に立つ瞬間だってあるだろう。
取り柄を手に出来たから、次は代えの効かない人間になりたい。
加えるなら、代えの効かない音楽を作りたい。
これに関しては叶うまで、とても長い時間が掛かる事だろう。
そうと分かっていながらも自分なりに、自分でないといけない歌詞やメロディ、アレンジになるようにと願いながら曲を作っている。
「sands」及び「WITNESS」も勿論そうして作った。
一滴の願いの味を知る為に何万リッターの泥を試していく。
そうして知れたもの、その過程で知れたものをこれからも作品にしていくだろう。
自分の望みを叶えつつ誰かの支えになるもの、自分の音楽にはそうあって欲しい。
以上が「sands」に込めた気持ち、そしてその背景である。
冒頭で言った通り、これらを踏まえた上でも、全無視した上でも構わないので、改めて聴いてもらえると嬉しい。
散々言葉を並べてきたけど、言ってしまえばとても大好きな曲なので。
それでは。