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【埼玉】

<つなぐ 戦後74年>タイ慰霊135回 元通訳兵・故永瀬さん 飯能の学生ら足跡たどる

タイでの経験を話す小林さん(左)と奥津さん=飯能市で

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 第二次世界大戦中、旧日本軍によるタイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道建設に通訳兵として関わった故永瀬隆さんの足跡をたどろうと、飯能市の大学四年小林奨さん(21)ら二十~七十代の九人が二月、現地を訪れた。鉄道建設では、過酷な労働や食料不足で多くの連合国軍捕虜が亡くなったことから、永瀬さんは戦後百三十五回にわたりタイでの慰霊などを続けた。現地を歩いた小林さんは「僕らの世代が永瀬さんの記憶を継承しなければ」と決意した。 (加藤益丈)

 五日の日程で行われたタイへの旅で、小林さんは、高さ十メートルほどの垂直の断崖が両側にそびえ立つ山道を歩いた。「ここで僕と同じ年ごろの若者たちが一日十二~十六時間も働かされ、命を落としたのか」と胸を締め付けられたという。断崖は、旧日本軍が泰緬鉄道の線路を敷くために捕虜らに掘らせてできた。食料不足などから、多くの捕虜らが命を落とし「ヘルファイア・パス」(地獄の業火の切り通し)と呼ばれる。

 小林さんは断崖でオーストラリアや英国、オランダ、ニュージーランドなどの国旗を見つけた。犠牲者の故郷から訪れた人たちが持ってきたという。「いろんな国の人にひどいことをした」と実感した。同行した同市の私立高校講師の奥津隆雄さん(52)は「(国旗は)ここで何があったのか、忘れてはならないというメッセージだ」と話す。

犠牲者の出身国の旗で埋め尽くされたヘルファイア・パス

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 小林さんは二〇一六年八月、奥津さんに誘われ、泰緬鉄道建設に動員後に日本へ送られて命を落とした英連邦軍兵士ら約千八百人が埋葬されている横浜市保土ケ谷区の英連邦戦死者墓地での追悼礼拝に参加した。

 さらに、同年に公開された永瀬さんの晩年を追ったドキュメンタリー映画を見て「自分たちもタイへ行きたい」と思ったところ、追悼礼拝の実行委員や参列者にも同じ思いの人たちがいることを知り、一八年末に今回の旅が決まった。

 旅先では、一九五七年のアカデミー賞映画「戦場にかける橋」で有名となった泰緬鉄道の鉄橋を見たり、連合軍共同墓地で献花をしたりした。小林さんは「僕らの世代は『あの戦争は正しかった』と言う人が多く、タイでの体験を話すには勇気がいるが、実際に戦争になればひどい目にあうのは僕たちの世代。永瀬さんも共感を得られない時があっても一人で贖罪(しょくざい)を続けてきた。僕もあきらめず、まずは同じ年代の人とタイに行ってみたい」と話した。

 ◇ 

 今回で二十五回目となる英連邦戦死者墓地での追悼礼拝は三日午前十一時から。雨天決行。問い合わせは、奥津さん=電090(8495)0063=へ。

<永瀬隆さん> 戦後、岡山県倉敷市で英語塾を経営しながらタイへ足を運び続けた。英連邦戦死者墓地での追悼礼拝の発起人の1人で、国内でも非戦のメッセージを訴え続けた。タイの連合軍共同墓地では、元捕虜との再会を果たし「あなたは私が握手できるたった一人の日本人です」と言われた。2011年6月に93歳で亡くなった。

タイの連合軍共同墓地で手を合わせる小林さん(右から3人目)と、頭を下げる奥津さん(左端)=いずれもタイで塚田マサ子さん撮影

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