履歴考 |
(最新見直し2010.02.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、竹中平蔵の履歴を確認しておく。 「★阿修羅♪ > 歴史02 」の 中川隆・氏の2010.2.21日付け投稿「竹中平蔵物語」、「ウィキぺディア竹中平蔵」その他を参照する。 2010.02.24日 れんだいこ拝 |
1951.3.3日、和歌山市の商店街にある竹中靴店(下駄屋)の次男坊として生まれた。和歌山市立吹上小学校、和歌山市立西和中学校、和歌山県立桐蔭高等学校卒業。 1969年、一橋大学経済学部入学。この年、安田講堂事件で、東大が入学試験をできなかった。受験の機会があれば東大に合格していたかどうかは分からない。大学時代はマンドリンクラブに所属。(そこで津田塾大学に通っていた節子夫人と知り合い結婚することになる) 1973年、一橋大学を卒業、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に入行した。 長富はその後大蔵省関税局長を経て財政金融研究所長を務めることになる。長富は、大蔵省の中堅幹部だった頃から、財政金融研究所の外郭団体を使い、銀行や証券会社から巨額の裏ガネを集めていた。そのカネは、政界工作はもちろん、海外の主要な大学や研究所との人脈づくりにも使われていた。長富は頻繁に海外出張して、接待・贈り物攻勢をかけることを処世術とする等、大蔵省きっての問題人物であった。この長富との出会いが竹中をシンデレラ・ボーイに押し上げていくことになる。竹中がハーバード大学に留学できたのも長富裏コネクションによると云われている。 1984.7月、同研究所在籍中、留学中の研究成果をまとめた「開発研究と設備投資の経済学」(東洋経済新報社)を発刊し、サントリー学芸賞を受賞する。これにつき、佐々木実「竹中平蔵 仮面の野望(前編)」(月刊現代2005年12月号)が、当時の設備投資銀行の同僚の鈴木和志氏(現在明治大教授)や日本開発銀行での同僚高橋伸彰(現在立命館大教授)の実証分析の結果を無断で使用していた事実を指摘している。1987年、大阪大学経済学部教授を務めていた本間正明の誘いで、歴代大蔵省キャリアの天下りポストである大阪大学経済学部助教授に迎えられる。以降研究者としての道を歩む。竹中は、この縁で後に、本間教授を経済財政諮問会議の民間議員に推薦することになる。 この時代に、母校の一橋大学に前述の論文に加筆したものを提出し、経済学博士の取得を試みたものの「あまりに初歩的すぎる」などとの意見が出て教授会の審査で不合格となる。これにより一橋大学での博士号取得を断念する。但し、竹中の指導教官であった山澤逸平(一橋大学名誉教授)は後年、この時の教授会の決定について一橋大の失態であると述べている。 この時代の竹中の評判は宜しくない。休講ばかりで授業を真面目にやらなかったうえ、生来の女好きが災いして教え子の女子学生にセクハラを働いたため、本間教授の逆鱗に触れて大学にいられなくなってしまう。トラブルを表沙汰にせず円満に大学を去る形にして貰い、ハーバード大学に留学することになる。 1989年、日本開発銀行を退職。長富氏と本間正明・大阪大学経済学部教授の引き、ハーバード大学教授を務めていたジェフリー・サックスの誘いでハーバード大学客員准教授及び国際経済研究所客員フェロー(准教授)に就任する。実際には助手見習いであり、しかも在籍したのはわずか3ヶ月だった。 1990年、慶應義塾大学総合政策学部教授を務めていた日本の政界に影響力を持つ加藤寛(慶大名誉教授、元政府税調会長)に誘われ、慶應義塾大学総合政策学部助教授に就任。加藤寛氏の推薦により政府諮問機関に入る。 同2月、日米構造協議において、アメリカ側が貿易不均衡問題を日本の責任で是正するように迫り、GNPの10%の公共事業を行うことを要求。同6月、日米構造協議で、海部内閣は総額430兆円の公共投資計画を約束。 1993年、アメリカ合衆国に移住する。コロンビア大学のビジネススクールにある「日本経営研究センター」(所長:パトリック・ヒュー[Patrick, Hugh]教授)の客員研究員になる。 1994年、大阪大学に論文「日本経済の国際化と企業投資」を提出し、博士(経済学)を取得する。 同10月、ナポリ・サミットの日米首脳会談において村山内閣が更に200兆円の公共投資を上乗せすることをクリントン大統領に約束し、国際公約とする。公共投資計画は総額630兆円に拡大する。 同年、竹中平蔵が「民富論」(講談社)を出版。「社会資本充実が日本の生きる道だ」、「530兆円を投資せよ。外圧に頼らない内需拡大を実施せよ」と主張。この頃からアメリカ側の工作活動を忠実にこなすエージェントととして頭角をあらわす。 1996年、帰国、同年、慶應義塾大学の教授に就任。 日本の短期経済政策には金融健全化と大胆な財政出動を伴う追加的景気政策が必要とし、内閣総理大臣小渕恵三に対し「10兆円を大きく上回る規模の追加的財政出動」などを提言した。その後、「日本経済再生への戦略」と題した答申を発表した。 1999年、同理事長。 日本興業銀行経営アドバイザーや、フジタ未来経営研究所理事長、アサヒビール社外取締役等も務めた。 森内閣発足により設置されたIT戦略会議にて委員を務める。そのときの委員には出井伸之らがいた。内閣総理大臣森喜朗が推進するe-Japan構想に対しさまざまな提言を行った。2002年、第1次小泉内閣第1次改造内閣においても経済財政政策担当大臣に留任し、金融担当大臣も兼任する。 2002.5月、竹中と兄・宣雄(当時ミサワホーム東京社長)がミサワホーム乗っ取りを画策する。宣雄が、「弟の平蔵と話しているのだが、(産業)再生機構を活用したらどうか」と当時ミサワホーム会長の三澤に提案。三澤は提案拒否。その後ミサワホームは経営悪化に誘導されることになる。 同10月、兄・宣雄が、「弟から電話があった。トヨタの奥田会長と会ってほしい」と三澤に再度要請。会談の前日、竹中平蔵自らが三澤に日時の確認を行っている。 2004.7月、第20回参議院議員通常選挙に自民党比例代表で立候補し70万票を獲得しトップ当選(史上唯一人の現職民間人閣僚たる新人参院候補)。同9月、第2次小泉改造内閣において、参議院議員として内閣府特命担当大臣(経済財政政策)・郵政民営化担当に就任。小泉内閣の経済閣僚として、日本経済の「聖域なき構造改革」の断行を標榜する。 同9.14日、フライデー事件裁判で、東京地裁判決が下り、被告のフライデー側が敗訴する。フライデー側は、直ちに東京高裁へ控訴した。 2004.12.28日、ミサワホームが経営不振から産業再生機構の管理下におかれる。翌年3.31日、トヨタ自動車がミサワホームのスポンサーになることが決定する。 2005.9月、第3次小泉内閣においても役職はそのまま留任。10月、第3次小泉改造内閣においては総務大臣兼郵政民営化担当大臣に就任。NHK民営化にも乗り出したが、首相の小泉純一郎が民営化に否定的な見解を示した為、頓挫する。 2006.2.23日、フライで事件で、最高裁判所は講談社側の上告を棄却し、講談社側の敗訴が確定した。 2006.9.15日、任期を4年近く残し政界引退を表明。 同年9月28日、参議院本会議で辞職許可(これに伴い神取忍が比例繰上当選)。 同年11月1日、自民党党紀委員会において9月29日に提出していた離党届が了承された。さらに同日、慶應義塾大学に復帰することが明らかにされた。 政界引退後の現在は、慶應義塾大学教授のほか、日本経済研究センター特別顧問、アカデミーヒルズ理事長、関西大学客員教授を務めている。河野太郎、山本一太、世耕弘成らが結成した勉強会「プロジェクト日本復活」では顧問に就任している。また、人材派遣業のパソナにて特別顧問を務めたのち、同社の親会社であるパソナグループの特別顧問を経て取締役に就任した。 竹中が構造改革、特に経済政策の舵取りを行ってきた小泉政権下で、日本での地域間経済格差や個人間経済格差が社会問題化し始めるようになる。加えて、サブプライム問題に端を発する世界金融危機後、日本でも経済が停滞して行くことになった。これに対し、竹中は、「日本の経済がなかなか元気にならないのは改革をやり過ぎたからではなく、改革を止めてしまったからだ。郵政民営化や、政策投資銀行である商工組合中央金庫の民営化を決めた2005年には、改革が進むということで、一年間で日本の株価は42%上がった。日本にはそれだけの技術、資本、人材もあるから、改革をすれば、日本の株価は上がる。ところが改革をしないと期待成長率が下がって、2007年みたいに株価が11%も下がってしまった。2007年のアメリカもサブプライム問題で揺れながらも、株価は上昇していた。政治的に改革をしたくない既得権益者の政治的キャンペーンに、日本中がこの二年間で染まってしまった」と述べ、停滞の原因を構造改革に対する無理解・反動であると主張している。 |
【竹中平蔵出自考】 |
14. 2012年10月20日 21:15:58 : HNPlrBDYLM 部落出身者はエリート・コースを進んでもこういう歪んだ性格になってしまう。 郵政民営化担当大臣である竹中平蔵がいる。彼は、斎藤貴男氏の「不平等社会日本」(文春文庫)によれば、東大法学部のネットワークから外れてしまった人間である。その大学受験の時期が、ちょうど大学紛争で東大入試が中止された時期に重なっていたので、仕方なく、一橋大学に入ったのである。更にいえば、竹中平蔵こそ、和歌山の靴屋(要するに部落民)出身で、東大に入れなかったルサンチマンから米国にすり寄って、出世したアメリカの手先そのものである。そういうメインストリームから外れざるを得なかった才能ある人々は、何か屈折した感情を日本社会に対して持っていくようである。竹中氏は「東大法」のサークルではなく、アメリカの研究所を中心にした「インナー・サークル」に加入するようになったわけである。 小泉純一郎は父親が在日朝鮮人であり、竹中平蔵・野中広努は部落民出身であった。こうした出身は、かつて絶対に上層部に行くことができなかった。だから能力のある者は外国に向かったのである。そして、都合よく権力を獲得すると、今度は被差別の怨念が、国家への復讐という形で現れたのかもしれない。彼らの行ったことも差別の解決ではなく、金儲け思想への逃避であり、国民全体を金融幻想に巻き込み、日本国家そのものを破滅に追いやることになった。やはり心底では、自分たちをひどい目に遭わせた差別国家に復讐したかったにちがいない。 本連載の目玉はこれまで明らかにされてこなかった竹中平蔵の幼少時代である。 ルポライターの田中幾太郎氏の筆によるものだが、一部重要な部分を引用してみる。 (引用開始) 「父親は小さな履物小売商をやっていた普通の商売人なんですが、父を見てると、世の中が不公平に見えるわけですね。父親はこれだけ苦労をして一所懸命働いてるのに金持ちになれない。 もっと楽してお金儲けしている連中が一杯いるのに・・・・。どうやったらもっと住みやすい、 よい世の中になるんだろう」(中略) 。同級生から「緻密で冷静」と評されていた竹中が別の側面を見せたのは、六七年十一月、和歌山市で「第四回全国高校生部落問題研究会」が開かれた時のことだった。十七都府県二百三十二校から二千三百名が結集した会場に高校二年生の竹中も足を運び、各分科会を精力的に回り、発言していたという。(中略)周囲が驚いたのは、その集会で、和歌山のある集落の出身者がひどい就職差別を受けたという報告があったときのこと。 竹中の顔が怒りでみるみる真っ赤になったのである。『リベラルタイム』(2005年10月号) 「貧困と差別」に憤った少年期-2000名中の3,4番 田中幾太郎(22-23ページ) (引用終わり) この田中氏のルポではこれまで知られていた、竹中大臣の生い立ちのエピソードとは変わった一面が紹介されているのだ。 彼は3人兄弟の次男として和歌山市に出生。一橋大学に進学する18歳にまで同市内で過ごした。 学園紛争が原因で東京大学の大学入試が実施されず、彼は一橋大学に進学し、開銀に入行するわけである。この田中氏のルポでは、竹中少年が、「部落差別問題」に非常な関心を抱いていたこと、履物商をやっていた父親が、貧しい生計を立てていたことについて描かれている。 竹中という人は、もともと頭は良かったものの、苦学生であり、貧困問題について真剣に考えていた。 開銀に入行したのは、高度経済成長理論の生みの親である、官庁エコノミスト下村治氏に憧れたため、ということは既に説明した。 記事は、その和歌山市内は現在は、行政改革の「地方切り捨て政策」によって疲弊し、現在の日本に跋扈する「ヒルズ族」や外資系の進出、そのマネーゲームの現状について触れて、「これが差別と貧困を憎んだ竹中が目指したものだとすれば、『変節』との謗りは免れえない」と締めくくっている。 部落については『被差別部落出身の有名人は?』へのコメント 日本の農村は怖い_月ヶ瀬村女子中学生殺人事件_平成まで部落にあった慰安所 |
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(私論.私見)