※【鬼塚史観と皇室問題】2人のヒロヒトと、ヒロヒト天皇の実父①を改題して加筆修正しました。
本日もお越しいただきありがとうございます。
先日ご紹介させていただいた、鬼塚史観による大正天皇の4人の親王の実父に関して、鬼塚氏の著書では、東久邇氏の証言「大正天皇には子種がないので、妃に男性をあてがい皇位継承者を作った」という証言を中心に検証し、それが事実であろうと書かれています。
鬼塚氏の推論では、裕仁天皇の父は西園寺八郎、秩父宮の実父は東久邇宮 稔彦、高松宮は養子で父は有栖川宮威仁親王・母は女官、三笠宮の実父は牧野伯爵と推測されています。
氏の著書は、膨大な文献と、関係者やその子孫の方々への聞き込み、正確な時系列から構築されており陰謀論扱いされておらず、氏の親王たちの実父に関する予想も的中する確率も高そうです。
が、管理人としては、裕仁天皇の実父が仮に大正天皇ではないなら、有栖川の宮系の方かなあ、と想像しています。
というのも、大神人・出口王仁三郎の道名が「尋仁=ヒロヒト」なんですね。後で書かせていただきますが、この人はもう一人のヒロヒト天皇でした。
あの時代、祭祀王「ヒロヒト」が二人いたのです。仮に昭和天皇が偽物の祭祀王であったとしても民間に「ヒロヒト」がいたわけです。
鬼塚氏の推測 親王の実父
裕仁天皇の父 西園寺八郎?
西園寺八郎氏だったと推測されています。
この方、毛利家侯爵のお子さんなんですね。西園寺家へ養子にいかれて西園寺家の家督を継がれたとのこと。
これが本当なら、明治皇統はここで絶えてしまい、毛利家の血筋が天皇にばけているということになります。
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西園寺八郎(wikiより、編集しています)
※このお写真を見るに、昭和天皇に似ているかな、と思うことろもあるのですが、、、
1881年(明治14年)
旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生。
1899年7月
学習院中等科を卒業。同年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。その後、ドイツのボン大学に留学した。
1901年4月
裕仁親王誕生(西園寺八郎氏20歳)
1906年
養父公望の長女新と結婚した。養父公望がヴェルサイユ講和会議に全権特使として渡仏した際は、妻と共に随行している。
1909年(明治42年)
桂太郎の内閣総理大臣秘書官に就任する。
1914年(大正3年)
宮内省式部官に就任する。式部職庶務課長、式部次長を経て、
1926年
主馬頭となる。次いで、宮内省御用掛となった。この間、皇太子時代の昭和天皇を補佐した。
1921年2月
昭和天皇の訪欧に反対した右翼数人が飯倉片町の邸内に乱入した際には、護身用仕込杖で応戦している。剣道の達人であった。
また、昭和天皇の訪英時には、プロゴルフの試合を初めて観戦したことで知られる。
1920年10月、
妻の新が亡くなり、養父公望としだいに疎遠になっていく。
1926年、
牧野伸顕内大臣の宮内省組織刷新に反発し、牧野の失脚をはかるものの、失敗する。
1928年(昭和3年)
勲一等瑞宝章受章。
1940年12月、
養父公望の死去により、家督を相続した。
1946年4月18日、
貴族院議員を辞職。
以上
【鬼塚史観】三笠宮の父君は牧野伯爵(大久保利通の息子、麻生太郎、信子妃の先祖)
鬼塚氏は、三笠宮の実父は牧野伯爵だと推測されています。
前にも書かせていただきましたが、管理人は、三笠宮の父君が仮に大正天皇でないのなら有栖川の宮系か、その配偶者の家系のかたではないかとおもったりしました。
あくまで想像です。単に、要望が似ておいでだからです。
有栖川家の人々
①有栖川宮幟仁親王
wikiより
ありすがわのみや たかひとしんのう、
文化9年1月5日(1812年2月17日) – 明治19年(1886年1月24日)は、幕末・明治期の日本の皇族。有栖川宮韶仁親王の第一王子。
ちなみに、三笠宮と比べると、、、
牧野よりは似ていると思う。
②有栖川宮 熾仁親王 ①有栖川宮幟仁親王の第1王子
wikiより
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、
天保6年2月19日(1835年3月17日) – 明治28年(1895年)1月15日)
有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。
和宮親子内親王と婚約していたことで知られる。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。
主旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の
明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。
(略)
熾仁親王は「政略結婚により許婚者・和宮を奪われた悲恋の主人公」としてのイメージが定着し、多くの恋物語や隠し子伝説の主となった。
新宗教大本の教主・出口王仁三郎も熾仁親王の落胤として名を馳せ、第二次大本事件では裁判所も王仁三郎落胤問題について微妙な態度を取っている。
近年でも有栖川宮の末裔を名乗る者によって有栖川宮詐欺事件が起きた。
転載以上
この方が出口王仁三郎の実父ではないかといわれています。
王仁三郎のお母さんが料亭に勤めていて方でご性質が発展家だったそうで、店に通っていた宮様とできてしまって子供ができた、それが王仁三郎だという話がのこっているそうです。
王仁三郎は、兄弟とは顔が似ていなかったそうですね。
出産後、宮様から短刀をもらい認知もしてもらう書付を賜ったけれど、後年、火災で書きつけも刀も焼けたとか、こうかくと嘘っぽいのですが、、、。
似てなくもないんですね。
この方の運命とお役目をかんがえると、宮家の落胤かもしれないと思うところは多くあります。
そして、有栖川宮威仁親王。
③有栖川宮威仁親王 ①有栖川宮幟仁親王の第四王子
wikiより
有栖川宮 威仁親王 ありすがわのみや たけひとしんのう、
1862年2月11日(文久2年1月13日) – 1913年(大正2年)7月5日)は、日本の皇族、軍人。
官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。
有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但し成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。
熾仁親王は異母兄。 幼称は稠宮(さわのみや)。
妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。
鬼塚史観では、この有栖川夫妻の実子が養子になったのが高円宮だったと推測されています。
管理人は、有栖川宮家の家系のかたか、その配偶者の家系の方が、三笠宮の実父なのかなと思ったりします。あくまで想像ですけど。
なぜなら、有栖川宮家の有栖川宮威仁親王にツグコ女王がそっくりだから。
左はツグコちゃん(三笠宮三男の長女)。
右は有栖川宮威仁親王。
皇族の中でいちばんのイケメンだった桂の宮様(三笠宮次男)にも似ている気がします。
確証はありません。あくまで印象の問題です、。
昔作ったコラ
オーストラリアの特権
お早うございます。
でれでれ様のお陰で鬼塚氏の名前を知り、幾つか本を注文しました。
日本はこんなに小さいのに、めちゃ複雑に成り立っていて、
脳みその小さい私はひと言を理解するのに大変です。
皇室の人名は似ていてややこしい上にたくさんいて、
次から次へと生まれては消えるので、なんか「大変だなー」と
別の意味で黄昏てしまいます。
よく噛み砕いて説明できますね。
天晴れ♪
おはようございます。
鬼塚氏の本、重いですね。
去年亡くなったのですが、美智子のことも雅子のことも書いてないんですね。むしろ、美智子に関しては犠牲になったという感じでかばっています。
題材も、生きている人間のことは避けていますね。田中角栄のこともかいていますが、死去したあとだから著作にしたのかなと思います。
地雷を踏みたくなかったのだと思ます。
アジアを侵略した日本という視点で書かれていますので、丸のみせずに、差し引く必要がありそうです。
でれでれ様、こんにちは。
鬼塚氏の本であったかどうかははっきりと記憶にないのですが、大正天皇の実父は大隈重信、実母は柳原愛子と読んだ記憶があります。真偽の程はわかりませんが明治天皇とも昭和天皇とも血の繋がりも無ければ皇族の血筋でもないということでしょうか?
明治維新で西洋と肩を並べる為には天皇を立憲君主としなければならず、孝明天皇の皇子の本物睦仁親王では臆病な上ひ弱すぎるので、表向き体格が良くて乗馬も出来る人間が必要だったのでしょう。
西洋植民地発想勢力はある国を支配下に置こうとするとき、その国の相対する二つの勢力を戦わせ(日本の場合徳川幕府&薩長)内乱状態にし、またその国の最下層の人間達(現体制への不満が大きいから。)を使い撹乱するのが常套手段だそうです。
確かに言われてみれば、皇族、政治家、事業家、芸能人等テレビ等で目立つ部分は部落や在日が多いですよね。
いつの間にやら江戸時代の士農工商からは外れた階層の出身者達から支配されていると言えるかもしれません。不満分子のガス抜きをし国体護持の為の明治維新であったという見解(先日ご紹介の落合完爾氏の説。)もありますが、国体護持のガス抜き策は無謀な試みではなかったか、何故なら今皇室が小室のようなクズを呼び込もうとしており、国民は消化不良のアレルギー反応を起こしかけているからです。本物の眞子様とは何の関係もなさそうな本物眞子様が選ばないであろう小室、国民もご結婚大反対の小室。しかし元々が本物睦仁親王とは何の関係もない大室寅之助だった疑い濃厚な現皇室です。あっ、大室と小室って何か関係あるのかな?偶然なのでしょうか?話が逸れてしまってごめんなさい。
本来、天皇のやくわりは存在すること、皇統をつなぐこと、祈ることだとおもうのですが、多少心身に障害があっても、これができれば問題なかったのかなと思うこともあります。皇統をつなく役割のリスクは宮家がありますから、祈るだけでも、存在するだけでもよかったと思うんですね。つまり、歩行困難な天皇でも、本物の睦仁親王で良かったと思います。西洋的な君主の型をもとめるのも、おかしいはなしで、維新にかかわった人たちが、幕末にはすでに西洋の価値観で日本をみていたことがわかりますね。
維新よりもっと早い段階に西洋人とかかわりを持っていたようにみえます。
日本の「部落民による革命(鬼塚氏)」は、ある意味ロシア革命の悲惨さと匹敵しますね。
20世紀は赤い世紀でした。
でれでれ草さま こんにちは。
以前知り合いがくれた鹿島曻著「裏切られた三人の天皇」を引っ張り出して少しずつ読んでいます。
関連事項のネット検索もしていますが、重いですね。
「裏切られた三人の天皇」の解説の中で、昭和58年頃、大室家に高松宮と思われる宮様がやってきて、大室家の当主の孫(当時幼稚園児)を見て「昭仁が愚鈍でみちゃあおれん、宮中にもどうにかしてくれという意見が多くて困っている、天皇家の養子にもらえないだろうか」というような話を持ち掛けたと書いてありました。
真偽のほどはわかりませんが、簡単に養子を迎えて大丈夫な家であったかと、驚きます。
拉致被害者の横田めぐみさんのお母さんに良く似ている李方子さんが、鹿島氏にソウルで「明治天皇は南朝の人だ」と直接仰ったそうですし、明治以降の天皇に神が降りているかどうか、恐ろしくて考えたくないような話ばかりです。(昭和帝はお祭祀されていたと思いますが)
ご存知とは思いますが、ネットで「橋本龍太郎は大室家と親戚である、愛子さまの生母は龍太郎の娘」と書かれているものも見つけ、以前しつこくかかれていた噂の出所を今更知ったりしました。
こういう事を知ると、皇族が複数替え玉を持っているのもあの方たちにとっては普通の事なのかも知れないと思ったりしています。
様々な流説が飛び交いますが、現実に見ても、皇室は明治を境に全く違うものになってしまったようですね。
問題は、敗戦から始まったと思っていましたが、維新から始まってましたね。
美智子も雅子も、明治以降の皇室の家風にあう女性だったのだとおもいます。
明治以降の皇室は、国際金融勢力の支店、皇族は取り換えのきく派遣社員で営業員。これなのかなと。
でれでれ草様、いつも、皇室について深く考えさせられる記事をありがとうございます。皇室問題がここまで深い問題だとは思いもよりもませんでした。
今、自分なりに皇室や政治について学びなおしていますが、政治の世界も、自然と2者対立する存在があったり、日本の根幹にあたる闇を感じさせます。
最近、明治天皇の子孫と自称されている中丸馨氏を知りましたが、親北朝鮮、新中な人で、完全に胡散臭いんです。
でも、明治期に天皇が入れ替わっているとしたら、納得ですね。いくらでも、なんでもいい放題ですから。
第2次世界大戦後、熊沢天皇という人が、正統な皇位継承を主張している人がいましたが、もしかしたら、この方、真実をしっていたのかもしれないなぁと思います。(最終的には、天皇廃止論を主張したのも、皇室の状態を知っていた可能性があったのでは。
南朝の熊沢天皇を名乗ることで、皇室側の反応を伺いたかったのではと・・・・。)
根が深い問題です。でも、ここまできたら、真実は明らかにしてほしいです。
中丸氏は、明治天皇とは何の関係もない方です。落胤とされるかたと、実母も接点がないそうです。
明治帝の孫と称して要人にあったり本を出したり、、、これ、詐欺だと思うんですけどね。
落語だと思って聞いていればいいのかなと思います。
出口王仁三郎さんのご子孫さんは、各地で活躍されているみたいですね。
出口なおさんと王仁三郎さんは、近代のオカルト史には避けて通れない方々ですね。
明治帝が偽物なのに、国運が上がったのは、王仁三郎がいたからかなと最近思うようになりました。
明治帝の歌が好きだったのですが、もしかしたら、昭憲皇太后が代作した歌だったのかもしれません。
王仁三郎さんは、裏天皇、、あるいは祭祀王としての天皇の役割をされていた方だったのかもしれませんね。
読んでいますよ、というか何というか。秘密の「秘」とは必ず示すと書くのですね。日本も世界もどんどん新陳代謝をしているのですね。孝明天皇までの日本が良かったのか、明治維新を乗り越えた近代日本が良かったのか、大平洋戦争に突入した昭和天皇の時代が良かったのか。はたまた…
フリーメーソン革命を経て私たちはどんどん時代に翻弄されていきますね。これからも。ぜひ「天皇家秘伝の神術」や、「天皇家超機密ファイルを手にとってください。私は目から鱗が落ちました。また「誰も知らなかった日本史」の「切紙神示」をぜひご自分で試されてくださいまし。感動し震えました。私はね。
出産後、宮様から短刀をもらい認知もしてもらう書付を賜ったけれど、後年、火災で書きつけも刀も焼けた → 短刀は現存していますし、サンデー毎日や地元の新聞で写真付で掲載されています。「書付け」とは「短冊2枚」のことですが、恋歌付の二枚の短冊は戦後裁判所から返還され一枚は現在所在不明なものの、
王仁三郞の娘 住の江は確認しています。一枚は綾部に現存しています。
熾仁親王から世祢の子、王仁三郞へのメッセージは「保野」であり。「野に保て」「殺されるから阿呆を装い過ごせ」です。王仁三郞の少年時代は「八文喜三」でした。
一枚の短冊には熾仁親王の花押と印がありましたが、もう一枚の裏には「保野」の薄墨の文字のみでした。「有栖川宮」の文字はありましたが。それは写真や画像が残されています。詳細は『誰も知らなかった日本史』に掲載されています。他の二冊の本にも有用な情報がありますね。
大本教は分裂をしながらも、今も出口家の方はご活躍されていますね。
注目したいと思います。
出口直さん、王仁三郎さんは、近代のオカルト史、宗教史ではさけて通れない方ですね。
王仁三郎さんの作成された耀椀とか、人間離れしてます。
>落合秘史では、明治天皇(大室寅之助)は南朝の護良親王(大搭宮)の血筋とか。
私も最初はそう聞きましたが、鬼塚氏は否定されてますね。立証できないそうです。
先祖といわれている南朝の宮が存在しないし、信憑性がないとか、、、。
そのあとのグテグテぶりをみると、やはり、偽物かなとうたがってしまいます。
かなりの確率で、大室某の部落は朝鮮系俘虜の子孫が住んでいた可能性が高いらしいですね。
今の皇室、皇族は、その階層と環境に帰ろうとしているように見えます。
応援ありがとうございます。掲示板、たまにみにゆきますが、件の方が私物化しているように見えます。ブログで書けばいいのにと思いますが。
天皇を神として崇め、神棚に御真影を飾り拝む。
これ、考えたら異常ですね。しかも、御真影がなぜか岩崎弥太郎に似ているのがまた、、、。
太平の夢と評しましたが、明治以降の赤い夢から国民は早く覚めるべきです。
サンデー毎日のお話 こんなホームページがありました。ご参照されたらいかがでしょうか。出口王仁三郎大学です。有栖川宮落胤問題と出口王仁三郎 落胤問題を検証 … – 出口王仁三郎大学
https://onisavulo.wordpress.com/page/4/
ありがとうございます。
https://arisugawa.jimdo.com/
ご参考までに