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根本中将とこれに従う武人たちの働きは、蒙古で四万の邦人の命を救い、北支では三十五万人の邦人の生命を守り、金門島にあっては廈門(アモイ)二十万と、台湾一千万の命を守ったのです。そして自らはそうした功績を一切誇ることも語ることもなく、一人の老人としてその生涯を閉じています。これが鍛え上げられた昭和の陸軍士官の姿です。 |
画像出所=https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12396826806.html
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)根本博中将は終戦のときには駐蒙軍司令官としてモンゴルにいました。
終戦後にソ連の機械化旅団がそこに攻めて来ました。
このとき根本中将はソ連軍に軍使を出して二日間の攻撃猶予を願っています。
四万人近い在留邦人がいたからです。
ところがソ連軍は聞き入れません。
一方で軍司令部からは根本中将のもとに「戦争が終わっているので即時停戦、武装解除」の命令が来ていました。
このとき根本中将は、
「民間人を守るのが軍人の仕事である。
その民間人保護の確たる見通しがない状態で
武装解除には応じられない。
理由の如何を問わず、
陣地に侵入するソ軍は断乎これを撃滅すべし。
責任は一切司令官が負う」
との命令を発しています。
根本中将旗下の将兵の士気は高く、二〇日午後及び夜間のソ蒙軍の攻撃を反撃して撃退、二十一日には各方向から一部陣地内に突入したソ蒙軍と白兵戦を交えてソ蒙軍を撤退させています。
そしてこの日の夕方には、張家口に集まった邦人全員の引揚げを完了させています。
戦いに先立って、根本中将は居留民避難のための列車を手配をしていたのです。
しかも各駅にはあらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運ばれ、避難民たちが衣食に困ることがないようにしていました。
当時、張家口から脱出した二十五歳(当時)だった早坂さよ子さんの体験談には次のように記載されています。
「張家口はソ連邦が近いので
ソ連兵が迫ってくるという話に戦々恐々とし、
五歳の女子と生後一〇カ月の乳飲み子を連れてとにかく、
なんとか日本に帰らねばと思いました。
駅に着きますと貨物用の無蓋車が
何両も連なって待っており、
集まった居留民は皆それに乗り込みました。
張家口から天津まで普通でしたら
列車で七時間位の距離だと思いますが、
三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
列車は万里の長城にそって走るので、
長城の上の要所々々に
日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、
皆で手を振り、
兵隊さんたち、無事に日本に帰ってと祈りました。」
同じ時期、他の地域では、在留邦人が女子供ばかりのところを襲撃されて皆殺しにされたり、ソ蒙軍の兵士から暴行を受け、あるいは地元民に襲撃されて所持品から着衣まで奪われたりした情況からすれば、張家口からの邦人避難民が「手を振りました」とは、もちろん難民としてのご苦労や不自由はあったろうけれど、いかにもみやびなことです。
そしてこれができたのは、間違いなく軍の将帥としての根本中将の断固たる意思と、その将を信頼して勇敢に戦った兵士たちの活躍でした。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
ちなみに八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした根本中将指揮下の駐蒙軍は、夜陰にまぎれて撤収しています。
列車は全部民間人避難のために使っていたから、自分たちは徒歩で帰還しました。
どんなに情況下にあっても、助けるべき者を助け、命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。
強いものほど苦労する。
これこそ古来変わらぬ日本の武人心であると思います。
こうして邦人四万人の命が救われました。
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯し、そのまま北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官となりました。
根本中将のもとに、今度は北支に残る軍民合わせて三十五万人の命が置かれたのです。
当時は蒋介石の国民党が幅を利かせていた時期です。
しかし大戦勝利者を気取る蒋介石も、根本中将率いる北支軍には手が出せませんでした。
北支軍が断固武装を解かないからです。
国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との銃撃等は無数に起こったけれど、根本中将に率いられた北支軍は、どの戦いでも敵を完膚なきまでに叩きのめしました。
すでに北支方面軍は装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのに、そのあまりの強さに、国民党軍や八路軍の中で根本中将は人を超えた「戦神(いくさがみ)」と呼ばれて恐ろしがられました。
そしてその強さを背景に、根本中将は蒋介石と直接交渉をして、在留邦人の安全な日本への帰還を約束させています。
こうして北支の在留邦人は、約一年で全員無事に日本に帰還することができました。
根本中将は、昭和二十一年七月の最後の船で日本に帰国しています。
こうして北支にいた三十五万人の邦人の生命が守られたのです。
それから三年、大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産軍が激しい戦いが続いていました。
敗退した蒋介石はついに国外脱出して台湾に逃れ、この時点で蒋介石に残されていたのは、台湾本島と南支那海に面した福建省の港湾都市の廈門(アモイ)近郊だけとなっていました。
蒋介石は廈門を失えば、次の戦場は台湾です。
そうなると元日本人であった台湾同邦一千万の命もどうなるかわからない。
この情況の中で、根本中将は単身、ひそかに漁船を用いて台湾に渡りました。
そして蒋介石と面会し、民間人の多い厦門を戦場にしないこと、近郊にある金門島で共産軍を食い止めることを進言し、自らその作戦指揮にあたりました。
こうして国民党軍に対して負け知らずで勝利の連続だった共産軍は、金門島で完膚なきまでに粉砕されました。
この敗北は建国宣言したばかりの中共政府にとって、新国家への信頼を失ないかねない事態となり、共産軍の進撃はここで停まりました。
戦いの後、台北に凱旋した一行を迎えた蒋介石は根本中将の手を握って謝意を述べたそうです。
しかし根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍の一切を、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしています。
おかげで台湾国内でさえ、金門島の戦いは誰もが知っているけれど、根本中将の活躍については、誰も知らないという状態が続いきました。
このことが明らかになったのは、それから三十六年を経過した昭和六十年になってからのことでした。
根本中将とこれに従う武人たちの働きは、
蒙古で四万の邦人の命を救い、
北支では三十五万人の邦人の生命を守り、
金門島にあっては廈門(アモイ)二十万と、
台湾一千万の命を守ったのです。
そして自らはそうした功績を一切誇ることも語ることもなく、一人の老人としてその生涯を閉じています。
これが鍛え上げられた昭和の陸軍士官の姿です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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文字通り中将のお陰で私が生存できているわけで、どれほど感謝しても言い尽くせません。
3年ほど前、須賀川まで根本中将の墓参に伺い、親族の方から「最近までバスを仕立てて墓参に見える方がいらっしゃいました」と聞きました。私だけでなく、ご恩を忘れない人が他にもいらしたのです。
杓子定規に命令に従うより、多くの人の命を守る正しいことを選択された中将には本当に頭が下がります。
戦は終わっている…殿(しんがり)を務め多くの命を護り抜くは正に武人の誉ですね。
凄い日本人!
誇りに思います。