彼らはみんな、ぼくらきょうだいの「正体」を知っていた。この日は児相の上空もマスコミのヘリコプターが何機も行き来しただろうし、両親の逮捕時の様子をテレビで見ていたかもしれない。同じ日に「林」という苗字の四人きょうだいがやって来たら、「林眞須美」の子どもだということは明らかだった。
彼らにとってぼくらは、カレーに毒を入れて4人を殺害し63人を急性ヒ素中毒に陥らせた極悪人の子どもたちで、何をしても構わない標的だった。ぼくは殴られながら、大人が助けに来てくれることを期待し、部屋の入り口の方に目をやった。すると、女の子たちがこっちを見て、バカにするかのように笑っていた。
本当なら今頃は、運動会のリレーで大逆転し、女の子たちの拍手喝采を浴びていたかもしれないのに……。
そう考えると、急に怒りが込み上げてきて、ぼくは反撃に出た。しかし、すぐに脚をすくわれ、後頭部から床に倒れた。そのまま頭を抱えて縮こまり、しばらく足蹴にされていた。
児相で1ヵ月以上過ごしたきょうだいたちは、その後、市内の児童養護施設に入所した。そこでは、1人当たりの私物はロッカー1つ分と決められていた。
「私物」にはランドセルや教科書、洋服、洗面用具も含まれていたため、どうしても入らず、長男がもたついていると、職員が勝手に荷物の仕分けをはじめたという。
長男が児相にいた頃、小学校の先生が持ってきてくれた同級生たちの寄せ書きも捨てられてしまった。
それは、児相で子どもたちの暴力にさらされるなか、長男が心の拠りどころにしていたものだった。
以前のぼくだったら、泣き叫んででも寄せ書きを取り返しただろう。しかしその頃のぼくは、自分の要求を通す気力もなくなっていた。
そのあと、中年の女性の先生が施設の中を案内してくれた。いったん庭に出て別の建物に入るとき、僕は間違ってスノコの上に土足で上ってしまった。すかさずその先生は、僕の脛を蹴った。そして痛みにうずくまったぼくに、「カエルの子はカエルやな」と吐き捨てるように言った。
児相から脱出できて少し緩んでいたぼくの心は、一瞬で凍りついた。ここも居心地のいい場所ではなさそうだと感じた。