コモ湖というところは、だいたい日中24、25度で夕方になると涼しい風が吹いてくる、という夏の避暑地として発達した。
いまグーグルで自分の夏の家がある村名+weatherで天気を訊いてみると、25度だと言っているが、まっかなウソでテラスに置いた気温計は28度を指している。
石壁で出来た家なので室内はいくらか涼しいがコモ湖の重要な楽しみである「長い散歩」が暑すぎてやれない。
ときどきクルマで湖畔に降りてひと晩帰りの観光客と一緒に湖畔を歩くが、湖畔の道などは単調ですぐ飽きてしまうので、少し歩いて、ジェラートやアフォガートを食べて帰ってきてしまう。
コモ湖のまわりには有名なレストランがいくつかあって、それぞれ何回かずつ行ったことがあるが、南イタリアの食事に較べるとロンバルディアの食事は価格の高低に関わらず歴然と不味く、しかも観光地風の味付けのところも多いので、自然馴染みになった肉屋さんや八百屋から材料を買ってきて自分の家でつくることが多くなる。
うーん、なんとなくつまらん、というのが正直な気持ちで、これなら南仏とかのほうがマシじゃんね、などと考えてしまう。
しかしコスタブラバもアヴィニヨンの郊外の村々もコモ湖も気に入らなくてダメならどーすればいいかという知恵が浮かばない。
モニは口にだして「むさい」ドイツ人やイギリス人が右往左往している夏のコモ湖は低俗なのではないか、と言ったりはしないが、このあいだ家のテラスから望見できる湖畔の道の渋滞を眺めながら「ニュージーランドはいいなあ」と小さく呟いたのをオットー1世(←だじゃれ)であるわしは聞き逃さなかった。
一瞬、コモいえは売り飛ばして、コモではかーちゃんととーちゃんの山荘に滞在することにして、マヨルカかどこかに夏の家を変更しようかと思ったがマヨルカにはモニかーちゃんの巨大な夏の家があるのを思い出して思いとどまった。
第一、それではモニかーちゃんに「梲があがらない夫」として叱責される頻度が増えてしまうのは見えている(^^;)
辛い人生だなあー、としみじみ思う。
家を買った2年前のブログ記事にコモに着いたことを「おこもさんになった」と書いたりするから、こういうことになる。
この4年間ずっとそうだとも言えるが、世界の経済は崩壊寸前で、崩壊寸前なのに、ロープからこけそうになると、おっとどっこいどっこらせのよいよい、と述べて立ち直る、ということが続いている。
中国は製造製品輸出の割合よりも投資国家として変身しつつあるが、もうとっくのむかしに製造業よりも比率が高くなった投資業のリターンが惨めなほど小さいので、真剣な危機を迎えている。
欧州は言うには及ばずで、欧州らしく消費税をあげてみたり、支出を切りまくってみたり細かい工夫をやりつくして、もう気息奄々、イタリアおとうさんやスペインおとうさんを初めとして「お倒産」の夢が現実のものになりつつある。
じっくりつぶれそうな余地を残している欧州経済とは異なって、中国がこけてしまうと、欧州おとうさんとは違う、ドラマティックな大崩壊が見られるので、わしのような借金ゼロのコンジョナシの凍死家以外はみな向こう5年間は退屈だけはしないですむものだと思われる。
中国がこけるとアメリカとオーストラリアがおおごけするのは目にみえている。
アメリカ経済に較べるとオーストラリア経済などは誤差みたいなものなので較べては気の毒だが、ぱっと頭に浮かんだふたつのひとつなので並べて書いている。
日本は天安門事件後の抜け駆け以来、中国政府の覚えがめでたく、中国依存が非常におおきい経済なので、一緒にこける、というよりは、ニュージーランドがオーストラリア経済の一部に組み込まれてしまっている、と同じ性質の言い方において、そういう意味においては中国経済圏の一部なので、やはりはなはだしい影響があるだろう。
世界中経済評論家のひとびとは威勢の良いひとが多いが、凍死家たちのほうは臆病と決まっているので、プレーリードッグみたいというべきか、借金を減らしながら、予定リターンの率をさげて、ときどき地平前の彼方を望見して、「まだ嵐こないから、もうちょっとオカネ稼いどくかな」とつぶやいて、思想もなにもあったものではない、短期稼ぎに邁進する。ケイマン諸島の口座にはどっかり座りこんだ現金がどんどん積み上がって、世界中の投資機会に「つぶれられるもんならつぶれてみい」とにらみを利かせている。
前に、オカネのことが心配ならばとりあえず1億5千万円ほど稼いで、グロスで1500万円、ネットで1000万円くらいの定期年収をうけとれるようにすればスタートとして良いのではないかと述べたが、投資家の考える事は世界中もちろん同じようなものなので、あの記事を書いたあと、いまではグロスで同じだけコンサーバティブな投資(たとえば居住用賃貸)で稼ぐには4億円弱の資金が必要になってしまった。
言葉を変えていえば、「金儲けになど興味はないがオカネのことを考えないで長い一生を暮らしたい」と考える若い人間にとっては、やる気がなくなるような世界になってしまった。
最近は「十全文功計画」の一環としてのイタリア=ローマ文明征服計画準備に忙しいので、ちょっと油断すると日本語さぼりになる傾向があるが、そういうことでは日本語能力はあっというまに衰弱するので、日本語記事を渉猟していたら、たまたま
「目指せグローバルエリート」という記事がふたつあった。
どちらも
「日本の生活は貧しい」
「日本では報われない」
「ダメ日本を出て世界標準の世界でバリバリ頑張ろう」
というようなお話で、日本を出て「グローバルエリート」として「世界で活躍」しているひとたちが「日本の青年よ、世界に向かって羽ばたけ」というようなことなのだった。
なんだか読んでいると年収4000万円が「グローバルエリート」の必要十分条件であるようなことが書いてあって、年収と密接に連関した「エリート」てオモロイんちゃうかしら、と思ったりしたが、それは、わしの皮肉な気持ちが頭のなかでわるさをしているだけでしょう。
わしは体質が「がんばれない体質」なので、「グローバルエリート」とかゆわれると、「たいへんそー」と思う方です。
わしの友達には「ガメ、去年は給料で19億円あったから島を買った。モニさんと一緒に遊びに来なよ」と電話をかけてくる女投資会社社員のようなひとがごろごろしている。
ガッコのときから、わしがタミヤのジオラマを精魂こめてつくって、「このアフリカ師団の戦車の正面装甲をよく見ると目玉焼きが載っているところがプロなんだよねー」と自惚しているときに、革新的な投資リスクの評価方法を数学手法を使って詰めていたようなひとびとなので、どだい、人間の出来が根本から異なっているのだと思われる。
「発明」という全然現実味のない「初めの十分におおきいオカネのひと塊」が、おもわず、我にも非ず、できてしまうまでは、このままいくと、有能な女友達の誰かに有無を言わさずプッシュプッシュプッシュで結婚されて、朝、目が覚めてくる「グローバルエリート」のお嫁さんのために裸で台所に立って甲斐甲斐しく朝ご飯をつくっていると、後ろから精気に溢れた妻女が近づいてきて、後ろからまわした手でち○ちんをつかまれて、おお、朝からこんなになって、お前も顔に似合わず好きだのお、と嫌らしい口調で耳元でいわれるなり抗いながらもいかされてしまう、というようなドーパミン生活になるのではないかと危惧したりしたものだった。
モニさんも、はらはらしていたそーです。
世界標準であっても、「仕事をバリバリがんばって自己を実現するのが理想の一生だ」などというのはくだらないと思う。
午後5時くらいに、なあーんとなくスプレッドシートを眺めていて、ふーんと思っていて、突然シートとは関係のないビジネスモデルを思いついて、評価してみたり、市場を調べたりして、気が付くと午前1時になっていて、当時ガールフレンドであったモニさんにたいへんケーベツされたことがなかった、とは言えない。
仕事というものは(そういうと怒る人がいるのは知っているが)要するにゲームで、ゲームには人間をチョー興奮させる要素があって、しかもビジネスというゲームはゲームデザイナーが束に成ってかかってもつくれないほど巧妙にできた、しかもひとつ勝てばその「勝ち」をまた展開させていくことができるというゲームで、そのうえ勝てばクレジットのかわりに現実に使えもするオカネでビビンビヨオーンと数字があがってゆくので、こんなに交感神経を刺激されるものはない。
能力のある投資家なら、夏の午後、プールサイドのサンデックチェアで、どへへへへえええー、でれええええー、マルガリータうめー、をしていて、突然、「あれ、これオモロイかな? これってやってみると、現実世界ではどうなるのかな?」と思うアイデアが頭にあらわれて、いてもたってもいられなくなって、電話で自分の郎党を呼び出して、「こういうことを準備しといてほしいんだけど」と述べて、自分でも「病膏肓というのはこういうのを言うのかしら」と考えた経験が何度かあるはずである。
余計なことをいうと、そういう経験がなくて、ただ自分のつくった「人脈」とかをたどって、「この会社とこの会社」あるいは「この人とこの人をあわせればもーかる」というような退屈な頭しかない「投資家」などは、パチモンなので、自分で早くそれを悟って「投資」というようなことを考えるのをやめたほうが自分の一生のためだとおもうが、それをここで述べてゆく親切心はわしにはない。
人間が仕事で充足しているのは自分をだましているだけであると思う。
この場合の「仕事」には「自分の書きたいものを書いたら、どっかの変わり者が1億円はらってくれた」という例外的な例は含まない。
何を言っているかというと、ブラック企業につとめて最近の日本の流行語で何年かすえば「腐った言葉」になるに決まっている言葉でいえば「社畜」として働くのも世界標準の「グローバルエリート」として「活躍」するのも、本質的には同じで自己にとっては望ましい姿とは言えないだろう、ということを述べている。
人間という生き物の最も面白い点は、たとえばクルマを買うときには、さんざん雑誌を読みあさり、世評を聞き、試乗もしたりして、さまざまな角度から検討して慎重を極めた態度で代価を払うのに、自分の一生を決定するというクルマを買うよりも遙かに重大な決定においては、他人(両親を含む)に「医者になれば」と言われたくらいのことで、ほいほいとたいした考えもなしに自分の一生を決定してしまうことで、あるいは酷くなれば一冊の荒んだ日本語で書かれた本を読んで「あっ、これもいいな」と考えて「グローバルエリート」になるべく留学すべ、と考えたりする。
このブログ記事で何度も述べたように、自己を投企する瞬間のその軽さ、愚かさこそが人間の良いところだが、わしももう30歳で、おじさんx2、なので、「グローバルエリート」なんかを目指してしまう前に、「社畜」と「グローバルエリート」のあいだにいかなる本質的な違いがあるかを考えてみることを奨める。
半日でいいから、考えてみるといい。
違いなんてないから。
どっちでも同じなのではなくて、どっちもダメですよ。
そうしてその理由は「自分」という子供のときから鈍くさいきみと嫌がりもせずにつきあってくれた「もうひとりのきみ」に訊いてみればいいのです。
わしなんかより、ずっと、わかりやすい言葉で、懇切に説明してくれると思う。
そして説明を終えたときには、きみの魂をどんな他人よりも暖かい抱きしめ方で、そっと抱きしめてくれるのだと思います。
「もうがんばらなくたっていいんだよ」と静かにささやきかけながら。
人間の一生のプライオリティNo.1は、きみ自身を幸せにすることです、というようなツイートをみてこちらに来ました。
ある文章の内容をぼんやり覚えていたのを手がかりにスクロールのみで探したので大変でした。
ぼくはこの記事の最後の2段落が好きです。
最初と最後の間にはさまれた文章がうまく頭に入ってこないのはぼくがニューズに疎いせいです。
この記事を探す前にツイッターで話しかけようと思ったのですが、言葉につまったのでこちらに来ました。
といいながら、ここでもすでに言葉につまってこの蟻様です。
「もうひとりのぼく」なんているとは思いませんでした。
でも今はなんとなくわかるような気がします。
そして気をつけないとすぐ忘れてしまうような。
まだうまく訊けないですが、いつかうまく訊けるといいな。
でわでわ
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