人間は、時として不思議なものだ。順調に行っているように見える人が、突然トンネルに迷い込むことがある。1996年アトランタ五輪のマラソンを1カ月後に控えた有森裕子がそうだった。
米国合宿中に、有森は夜中にすすり泣くようになり、それが何日も続いた。初め原因が分からなかったが、よく聞くと「練習不足が不安で夜も眠れません」と言う。練習不足なんてとんでもない。順調そのものだったんだ。「私がメダルをとれなかったら、周りの人たちに申し訳ない」とも言った。重症だった。
64年東京五輪のマラソンで銅メダルをとった円谷幸吉さんは、68年メキシコ五輪を前に苦悩して自死した。有森の身に何かあっては大変と、スタッフが寝ずの番をしたほどだった。
考えた末に、僕が思いついたのは、有森と行う「朝の儀式」だった。コロラドの自然の中、昇る朝陽に手を合わせるというもの。「今日も変わらず陽は昇る。自然は何ものにも動じない。それに比べりゃ、人間は小さい。ささいな悩みや不安に、いちいちくよくよしていたらつまらんぞ」。数日続けると、有森に笑顔が戻ってきたんだよ。
出口のないトンネルはない。中で立ち止まっていたら、ずっと暗闇のままだ。1人で抜け出せないときは、周りがあかりをともしてやらなきゃね。
アトランタ五輪の女子マラソンは、23年前の7月28日に行われた。有森は、前回バルセロナの銀に続いて銅メダルを獲得した。「初めて自分で自分をほめたいと思います」の名言は、この時発せられた。私も現地にいたが、小出さんが涙を流していたのを思い出す。 (聞き手・満薗文博)