公営ギャンブルの歴史
国分寺市の訴訟の件で「パチンコ店」の換金システムは、刑法の賭博罪に当たるのではないか。といった向きの意見を頂戴した。この話はさておき、過去に「公営ギャンブル」について考察した論文を書いたことがあったので、改めて読み直してみた。
1990年(平成2年)当時の仕組みや財政上の数値を用いているが、公営ギャンブルの歴史は変わらない。読み物としても面白いかもしれないと思ったので、ブログにアップしてみた。全体は6章立てになっているが、そのうち「はじめに」と「1.公営ギャンブルの発生」のみ掲載した。
公営ギャンブルの構造と自治体「1990年3月 樋口満雄」
はじめに
1.公営ギャンブルの発生
2.公営ギャンブルの仕組みと金の流れ
3.開催権を持つ自治体の現状
4.自治体財政にみるギャンブル収入の実態
5.ギャンブル収入の均てん化問題
6.公営ギャンブルの存続と問題性
はじめに
歓喜と罵声、驚喜と落胆……。 ギャンブルをめぐる明暗織りなす人間模様は様々である。しかし、競輪・競艇などのギャンブルを地方自治体が開催し、そのうえ吸収された収益金を、公共施設の建設などに使っていることを知るギャンブルファンは少ないであろう。また、ギャンブルの胴元である自治体においても、みずからの団体がギャンブルを開催していることを知らない職員さえいるのである。もちろん地域住民もギャンブルの目的とそのしくみを知る人は少ない。
「ギャンブル」という言葉のもつ響きは「一家離散」といったような暗いイメージを連想させ、一部ギャンブルファンの「射幸心を満足させる必要悪」であるとの認識は一般的に定着している。それゆえに胴元である自治体は、何億もの収益金があってもギャンブルの制度や収益金の使途を積極的にアピールしない。これは公認されているとはいえ、自治体が賭博に手を染めているといった一種の「後ろめたさ」が存在しているのであろう。
ギャンブルの売上金の一部は、胴元である自治体の収入になるだけではなく、振興会(日本船舶振興会、日本自転車振興会など)に上納され、各種の団体に交付されるという補助金システムが確立されている。しかし、この構造について明確に伝える論文は、今日あまりにも少ない。
以上の様に、ギャンブルをめぐる金に流れは、自治体がかかわる公金制度のグレーゾーンである。そこで、公営ギャンブルの歴史や構造を概観しつつ、自治体財政との関係、収益金の使途、振興会の補助金システムの問題性、公営ギャンブルの役割といったものを考察してみたい。
1.公営ギャンブルの発生
地方財政上の用語として「収益事業」といわれるものには、競輪・競馬・競艇・オートレース・宝くじ事業がある。このうち宝くじ事業を除いた四事業を、公営競技(公営ギャンブル)と呼んでいる。これらの事業は、それぞれ自転車競技法・競馬法・モーターボート競走法・小型自動車競走法の定めるところにより、自治体が開催できることになっている。
しかし、一般に賭博(注1)といわれる行為のうち、なぜこれらの四競技だけが公認され、現在に至るまで存続してきたのか。どのような経過で、自治体が施行者(胴元)になりえたのか。競輪と競艇を例に、公営競技の発生とその歴史について触れておく。
自転車競技は、公営ギャンブルとされる以前から「競技スポーツ」として定着していた。この自転車競技から競輪が発生したのは、昭和21年6月に設立された「国際スポーツ株式会社」の事業内容に端を発するが、連合国の占領下という敗戦後まもない社会情勢のなかで、あたらしいギャンブルを生みだすことは、おおくの困難(注2)がともなったといわれている。
昭和23年11月20日、日本最初の競輪が九州・小倉市(現北九州市)で開催(注3)された。小倉市での競輪は「自治体財政の窮乏を救い、戦災復興に寄与する」という目的のもと、4日間にわたり開催され、市当局の予想を大幅に上回る売り上げを記録した。この小倉市の成功を契機に、各自治体は競って競輪への参加を計画するようになったのである。いうならば、競輪の発展は「戦災復興という大義名分と自治体財政の窮乏を救うという自治体関係者の熱意によるところが大きかった」ということが出来よう。
一方、競艇の発生過程は競輪とは大きく異なる。モーターボート競走法が、国会史上初めて憲法第59条第2項の適用を受け廃案寸前から衆議院の再議決という異例の手続きによって成立(注4)したのは、競輪開催から2年半ほど後である。このボート競走をギャンブルの対象とする発想の背後には、小倉市の競輪成功とその後の競輪ブームがあったことは想像できよう。
これを考え付いたのは、(注5)笹川良一(日本船舶振興会会長)といわれ、自治体関係者から競艇の開催要望があったという史実(注6)はない。競艇開催を推進する一部の人たちが、法案提案以前から開催準備を進め、法案成立の根回しを画策するなど、競艇の利権システムを作り上げていったのである。その背後には、どうしても法案が成立してもらわねばならない事情(注7)があったといわれている。
法案成立後の利権争いも、凄まじいものであったといわれているが、施行者である自治体が海の物とも山の物ともわからない競艇事業に投資することは相当危険な賭であり、ここにも競艇をめぐる「利権システム」を作ろうとする人達の暗躍があったといわれている。このように競艇は、法案の廃案寸前という地獄の底から引きずり出され、競艇推進派の主導権のもとに「巨大な利権システム」として発展してきたといってよいだろう。
注1 競輪・競艇は、賭博行為と富くじ行為との複合的携帯をとる一種の興行であり、本来、刑法の賭博罪(刑法185条)や富くじ罪(刑法187条)の対象となるが、競技法の認める範囲内であれば刑法35条(法令による行為)の適用により違法性が阻却される(清野淳「競輪の法的構造」広島修道大学研究叢書第29号(昭和60年)10頁)。
注2 「国際スポーツ株式会社」による「報奨金制度併用による自転車競走」の企画書が、神奈川県知事に提出された。県は検討の結果、現行法規をもってしては実行不可能ということであった。そこで、国際スポーツ株式会社は、「自転車競走の構想」を社会党中央執行委員の「林大作」にもちこんだ。(時の総理は片山哲)。その後、衆議院議員有志からなる「自転車競技法期成連盟結成準備委員会」を発足させ、準備委員会は法案の原案を策定したうえで、昭和23年2月に期成連盟の結成を宣言した。原案の要点は、(1)目的は自転車産業の振興に限定、(2)主催者は国及び都道府県、(3)全国一本建ての自転車振興会が施行を全面的に受任すること、などであったが、社会・民主両党からの修正案により、(1)目的の中に地方財政の増収を図ること、五大都市にも施行権をあたえることが加えられ、(2)自転車振興会は中央に本部を置く特殊法人として監督を強化することとなった。しかし、当時の我が国は連合国の占領下にあり、すべての法案はGHQの認可が必要であった。GHQでは、(1)競輪の施行権は地方自治体に限ること、(2)自転車振興会という特殊団体は認めないこと、などを通告してきた。交渉は難航したが、(1)主催者から国を除き、都道府県のほかに京都・横浜・神戸・名古屋の各都市を加え、(2)振興会を都道府県毎に設立する。などによって正式認可され、国会審議の一部修正を経て法案は成立した。(前掲「競輪の法的構造」1~3頁、日本自転車振興会編「競輪三十年史」(昭和54年))。
注3 法案の原案では、都道府県のほかは戦災都市にしか施行権が与えられなかった。小倉市は戦災都市ではなかったが、戦時中に8,300戸もの疎開を断行していた。地方都市にとってこの強制疎開施策は、戦災都市被害に劣らない「戦災」であった。当時の小倉市長であった浜田氏は、商工大臣「水谷長三郎」に直接詰寄り、小倉市も実施できるように[その他、大臣の指定する都市]という項目を追加させた。このようにして開催地を得た小倉市は、手探り状態の中で、第一回開催の売り上げ見込み1,540万円、利益見込み10万7千円の予算でスタートした(前掲「競輪三十年史」)。
注4 衆議院本会議はドン詰まりになっていた。林譲治議長は、衆議院提案によるモーターボート競走法案が参議院で否決されたことを報告した。すかさず、自由党の福永健司議員(後の運輸大臣)が立ち上がって動議を提出した。「憲法第59条にもとづいて再議決のため、本院議決のモーターボート競走法案を議題とせられんことを望みます。」「異議なし」の声があがるや否や林議長は、「賛成の諸君の規律を求めます」とやった。自由党(285)と国民民主党(66)の議員は一斉に立ち上がった。これで定員の三分の二以上である。(鎌田慧「競艇帝国の元首笹川良一」『文芸春秋』昭和56年4月号)。
注5 競艇を思いついたのは笹川であり、巣鴨プリズンでアメリカの雑誌を読んでいてヒントを得た、との伝説が広く流布されている。たとえば「海国日本はモーターボートをギャンブルとして市町村の財政に寄与したらと考え、出獄早々この構想を発表したが、自分では運動できないので福島世根や矢次一夫に依頼して運動を開始した」と笹川が語っていたことが「競輪沿革史」に記載されている。しかしこれは「勝てば官軍」による官製の歴史であり、最初の考案者は、今は史書から抹殺されてしまった静岡県の「面木公昭」である。彼は日本遊船協会のメンバーだった。そのアイディアが大野伴睦のところに持ち込まれたが、時期尚早にして結実しなかった。(前掲「競艇帝国の元首笹川良一」)。
注6 衆議院運輸委員会に参考人として登場した「堤徳三」(「舵」という雑誌を出していた)に対し「競馬や競輪のように、自治体からの協力要請があったのか」との質問があった。堤参考人はこう答えている。「私どもはそういう問題についてまったくわからないのでございまして、この法案を通すことを議員の方々に伺いまして、このほうがよろしいというだけであります」(前掲「競艇帝国の元首笹川良一」)。
注7 モーターボート競走法案が参議院での否決にもかかわらず、強引に生み出されたのは、昭和26年6月上旬だったが、大阪ではこの法案が議員立法として国会に持ち出される前すでに、競艇開始の準備が進められていたのだった。このころ、府下で市制を敷いていたのは16市だった。敗戦の年まで国粋党総裁として代議士になっていた笹川良平が顔見知りの市長たちを動かし、市長会で決めさせていたのである(前掲「競艇帝国の元首笹川良一」)。
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