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| 肉体は魂の乗り物、というのが古くからの日本人の考え方です。 戦いに敗れても、魂魄となって戦う。
 御国のために、魂のすべてを捧げる。
 肉体が苦しくても、魂だけは汚さない。
 絶対に負けない。
 同時に、投降を勧め、食料などをくれた米軍とその司令官には、しっかりと丁寧にお礼をする。
 そういう選択をすることができたのが、いまはもう歳をとった私達の祖父たちの若き頃の日々です。
 私も日本人でありたいと思います。
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画像出所=https://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/629b2c03f358d43463ac3c989e1ffc28
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)以下は動画『明治150年 真の日本の姿・第四話』の中でお話したことです。
 *
一ヶ月以上にもなる激戦の後、米軍は硫黄島を占領しました。
その翌日、摺鉢山の穴から、負傷した日本の陸軍少佐が降伏の印のハンカチを持って出てきました。
「司令官はいないか。
 穴の中には、有能な30名の青年達が残っている。
 彼らを日本のため世界のために生かしてやりたい。
 私を殺して彼らを助けてほしい」
と言いました。
少佐を引見した第五艦隊のレイモンド・スプルーアンス司令官は、
「お前も部下達も助けてやろう」
と話しかけましたが、彼は
「サンキュー」
といったまま息絶えてしまいました。
米軍は、青年達が残る穴に、タバコや缶詰を投げ入れて、残された青年達に穴から出てくるように勧告しました。
しかし日本の青年たちは応じずに抵抗を続けました。
膠着状態は五月まで続きました。
やがて何名かが餓死し、最後に残された者たちは手榴弾で自決して果てました。
爆発音がしたとき、スプルーアンス司令官は穴のところに飛んで行きました。
すると穴の入り口に英語と日本語で書かれた手紙が置かれていました。| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!
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      『閣下の私達に対する御親切な御厚意、
 誠に感謝感激に堪えません。
 閣下より戴きました煙草も肉の缶詰も、
 皆で有り難く頂戴いたしました。
 お勧めによる降伏の儀は、
 日本武士道の習いとして
 応ずることができません。
 最早水もなく食もなければ、
 13日午前4時を期して、
 全員自決して天国に参ります。
 終りに貴軍の武運長久を祈って筆を止めます。
   昭和二十年五月十三日
     日本陸軍中尉 浅田真二
 米軍司令官スプルーアンス大将殿』
スプルーアンス司令官は、戦後アメリカに帰ってから十数年間、米国全土を講演して次のように語りました。
「アメリカの青年達よ。
 東洋には素晴らしい国がある。
 それは日本だ。
 日本には君達が想像もつかない立派な青年がいる。
 ああいう青年がいたら、
 やがて日本は世界の盟主になるに違いない。
 アメリカの青年達よ、奮起せよ!」
<英文>
“A Letter of Iwo-jima Island”
The very next day after the U.S. military captured Iwo-jima Island through the severe battle lasted for about 1 month with 
many casualties, an injured major of the Japanese army came out of a cave with a handkerchief in his hand for surrender.
He said, "I want to see your commander. There are still 30 brilliant young men in the cave. I want to save them for the sake 
of Japan and the world. You can kill me, but please save them."
The U.S. commander, whose name was Spruance, said to the major, 
"I promise to save them, and of course you, too." The major said, "Thank you," but then he died.
After his death, the U.S. military tried again and again to persuade the youth to surrender, throwing tobacco and canned 
foods into the cave. But they did not listen to the recommendations and never surrendered.The deadlock situation 
continued from February to May, but it ended when some starved to death and the rest killed themselves with grenades.
Hearing the explosion, Commander Spruance hurried to the cave. At the entrance, he found a letter written in English 
and Japanese.
"Dear Commander Admiral Spruance,
 We do not know how to thank you for the generosity you have shown to us. We all enjoyed 
 the tobacco and canned foods from you with many thanks. As to the surrender you kindly 
 recommended to us, we cannot do so because it is against the code of Japanese Samurai. 
 Now we run out of water and food. At 4 o'clock in the morning of May 13th, we will commit suicide in 
order to go to heaven. With this I conclude, praying your military may have long-lasting luck in battle.
	May 13, Showa 20
	Japanese Army First Lieutenant Shinji Asada"
After reading this, Commander Spruance traveled throughout the United States to deliver lectures for ten years or so after 
his return to America at the end of the war, saying:
"Young Americans! Listen! 
 There is a tremendous country in Asia called Japan. It is beyond your imagination how wonderful the young Japanese are. 
 With such young men and women, I am sure one day Japan will be the leader of the world. 
 Young American, you should rouse yourself.”
***
硫黄島の戦いは、昭和20年2月19日~3月26日に繰り広げられた日米の激戦です。
トップにある負傷した日本の陸軍少佐の名前は、いまとなってはわかりません。
けれどこのとき少佐は、片足を失っていたそうです。
足から大量の出血しながら、最期の力を振り絞って痛みをこらえて投稿し、ついに息絶えたのだと思います。
このお話は、上の手紙の現物が現存していないことから、作り話だとする意見もあるのだそうです。
しかしスプルーアンス大将が全米を講演して回ったことは事実で、大将ほどの人物が嘘を言うとも思えず、私は真実であったことだろうと思っています。
文中にある浅田真二陸軍中尉は、実在の人です。
昭和6年に東大経済学部を卒業し、社会人として働いているところを、赤紙招集で硫黄島に赴任しています。
もし仮に、自分がこの浅田陸軍中尉の立場にあったなら、どのように行動したでしょうか。
この戦いの時点で、日本はすでに制海権を失っています。
日本本土からの補給以外に、弾薬の補給も食べ物も水もないという情況です。
持久戦になれば、最後は島を護りきれなくなることは、最初からわかっている戦いです。
それでも硫黄島を敵に奪われたら、敵は悠々と日本本土を爆撃しにやってくる。
その爆撃は都市部に行われますから、確実に言えることは、故郷の父母妻子や親戚などの命が奪われるということです。
だから戦う。
どこまでも、いつまでも戦う。
それが国を愛し故郷を愛し人を愛する日本男児の道だからです。
しかし矢玉尽き、上官の少佐も足を失い、最期の力を振り絞って投降を勧めてくださいました。
米軍も少佐の意向を受け入れ、司令官みずからが壕内に食べ物などを支給してくれ、投降を、繰り返し勧めてくれています。
投降すべきかどうか。
部下たちは、みな若い。
まだまだこれかの人生です。
米軍の下級の兵士たちに投降したときに受ける乱暴は、噂に聴いています。
けれど硫黄島攻撃の総司令官が、ちょくせつ投降を呼びかけたとなれば、捕虜虐待の可能性はきわめて低いと考えられます。
腹も減っています。
もう弾も食べ物も飲水さえありません。
壕内にいるのは、傷ついた者たちばかりです。
この者たちみんなに、俺は死ねと命ずるのか。生きろと命ずるべきなのか。
人の上に立つ上官として、浅田真二陸軍中尉には大きな心の葛藤があったものと思います。
みなさんならどうするでしょうか。
けれど、ときどき聞こえる銃声は、まだ仲間たちがどこかで戦いを繰り広げ、抵抗を続けていることを示します。
故郷を出るときに、最後の最期まで立派に戦うと誓って故郷を出ています。
虜囚となって生きて帰ったとき、村の人達や見送ってくれた同窓生たちは、なんと言うでしょう。
「俺たちを護るために戦いに出ていって、
 結局負けて捕虜になって帰ってきただけなのか。
 どうして立派に最期まで戦ってくれなかったのだ」
となじるでしょうか。
結果は、浅田真二陸軍中尉以下、残ったメンバーは、全員、死を選びました。
肉体は魂の乗り物、というのが古くからの日本人の考え方です。
戦いに敗れても、魂魄となって戦う。
御国のために、魂のすべてを捧げる。
肉体が苦しくても、魂だけは汚さない。
絶対に負けない。
同時に、投降を勧め、食料などをくれた米軍とその司令官には、しっかりと丁寧にお礼をする。
そういう選択をすることができたのが、いまはもう歳をとった私達の祖父たちの若き頃の日々です。
私も日本人でありたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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