<南風>物語の存在理由

 水は形を持たない。流動的で自らは留まることさえ出来ない。だから人は器を作った。器を用いてようやく水はその姿を見せる。丸い器では丸く、四角い器には四角く。己の姿を変えつつ現れる。確かに在るが形はない。器に託して己を覗かせる。つくづく水は不思議だ。

 不思議さにおいては心も同じ。あるにはあるが、在りかはわからない。心の持ち主自身でさえ把握しかねる。だから人は“ことば”という器をこしらえた。ことばの器に心を収め、ようやく眺めることができた。他者に手渡しもできた。

 形見の遺失。友の旅立ち。愛する者の逝去。それぞれの心の沈み・揺れ・砕きを「悲しい」という器に容(い)れる。そこで初めて自らの心模様を眺め、理解する。他者に心が伝わる。しかしことばは所詮(しょせん)器に過ぎぬ。心は人の数だけ異なる形を持ち、変幻自在に姿も変える。ある心を「悲しい」に閉じ込めた刹那、思いの核は消えてしまう。着心地の悪い既製品が私らしさを奪うように、ことばはもはや私を表しはしない。私だけの「悲しい」は、どうすれば伝わるだろう。

 物語の存在理由。それは私の心そのままを伝えるため。どこまでも私だけの心をまるごと他者に届けるため。人は物語の世界に溶け込み、かけがえない個を生きる主人公の姿を通してその心を“感得”する。物語は心を閉じ込めようとすることばの弱点を補うための大がかりな装置だ。

 昨今の教育改革で国語は大きく姿を変える。大学入試を考えると、今まで以上に実用的、論理的国語に軸足が移り、物語を扱う時間は減るだろう。契約書やグラフを正確に読み取る力が何よりも必要な世の中だ。

 それでも私は、物語だけが持つ“伝えづらい心を伝え得る力”に拘(こだわ)りたい。これは国語を教える者の使命ですらあると感じる。
(砂川亨、昭和薬科大学附属中・高校教諭)