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【首都圏】

天気予報は平和の象徴 元気象庁職員・増田善信さん(95)

「天気予報は平和のシンボル」と話す増田善信さん=東京都狛江市で

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 「お空のみかた」(三月二十六日付、メトロポリタン面)で、「急速に発達する低気圧」は「爆弾低気圧」と呼ばれると解説したところ、「戦争を想起させる呼び名には違和感がある。『スーパー低気圧』としたらどうでしょうか」という投書が寄せられた。差出人は元気象庁職員の理学博士、増田善信さん(95)=東京都狛江市。話を聞くと「天気予報は平和のためにある」という強い信念が伝わってきた。 (布施谷航)

 太平洋戦争開戦当日の一九四一年十二月八日、増田さんは京都府北部の宮津測候所で当番勤務にあたっていた。午後六時、受信機からは数字の羅列が流れてきた。

 所長に報告すると、「おう、来たか」。金庫から乱数解読表を取り出してきた。この時初めて、気象情報が暗号化されたと知らされた。同日未明、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃。暗号による情報伝達は戦争の始まりを受けたものだった。

 爆撃や戦闘機の発進の可否を左右する風向や風速などの気象情報は、軍事情報として使われる。天気予報はこの日を境に、終戦後の四五年八月二十一日まで新聞やラジオ放送から姿を消した。

 測候所では、中央気象台(現気象庁)からモールス信号で流れてくる気圧や風向などの気象情報を元に天気図を描き、官公庁に張り出すなどして予報を発表していた。

 宮津には漁港もあり、漁師の命を守る情報として個別の問い合わせにも応じていた。しかし、軍事機密になり、それもできなくなる。

 「今日は晴れているけど、あしたはどうかなぁ」。そんな言葉をかけるのが精いっぱい。天候悪化を察してくれるよう祈った。

 「心苦しかった。『しけが起きる』と分かっているのに、みすみす出港させるのですから」

 上空の偏西風の動向分析は、太平洋を越えて米国本土を攻撃する「風船爆弾」を飛ばすのにも利用された。増田さん自身も海軍予備少尉として大社航空基地(島根県出雲市)で、敵艦に突っ込む特攻に出発する操縦士たちに気象予報を伝えた。「送り出した人を無駄死にさせてしまった」との自責の念は今も絶えない。

 気象情報が「戦争の手段」として扱われたのを目の当たりにした増田さん。命を守るための天気予報を伝えたい-。言葉へのこだわりに、平和への祈りが込められていた。

1945年8月22日に再開された東京新聞の天気予報(日本新聞博物館提供)

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