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たとえばジャイアンがのび太をイジメていて、のび太が何かのときに仕返しをしてジャイアンがひどい目にあう。とってもわかりやすい構図です。
しかしながら、神風特攻隊やドイツのホロコーストなどの死者は因果も応報もありません。
不幸な時代の不幸な役回りになってしまっただけです。

この矛盾をどう説明すればいいのでしょう。
仮に来世があってその時に大幸運だったとしてもそれに何の意味があるのでしょう。
大体前世なんて覚えてないしそもそもないのではないかと思っている。

当面現在頭にキているのが、40代で無職でうつで参ってます。
とくにうつはおれがなをしたんだなんで苦しまなきゃいけないの、ってとこです。
因果応報がないんだったら好き勝手にやってしまおうか。。。ってそんな根性もないけどね。
ってとこで相当矛盾があるとおもうのですが、論破でも説教でも参考意見お願いします。

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A 回答 (19件中1~10件)

因果応報なんてのは、人間が勝手にこしらえた


概念です。
因果応報があるから、悪い事をしちゃいけないよ
と諭すために創ったものです。

だから、罪の無い人もヒドイ目にあったり
罪のある人が良い目にあったりするのです。
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この回答へのお礼

何かわっ勝ってきました。
対人関係に置いて、壊滅的な状況にならなければ、ある程度機能しますよね。
このことをいって作ったのか知れませんね。
回答どうもです

お礼日時:2012/09/15 23:38

#7,#15です。



>天地に感謝するってことですか。

いいえ違います。心の深いところに潜んでいる神性にです。

不条理な社会を拠り所とせず、不可解な宗教を拠り所とせず、あなたの神性を拠り所としてください。
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連投すみません。



実は、仏教には初期のころから
弥勒信仰というのがあります。

マイトレーヤこと弥勒菩薩が56億7千万年後にやってきて
全員救われるそうです。

しかもこれはゴータマによって予言されているそうですし、
空海も現在は弥勒菩薩のいる兜卒天で修行中ということになっています。

因果応報だの何だのいっても関係なくて
実は、最終的には全員救われるんですよ。

それにもかかわらずあれこれ修行法を考え出して。

つまり誰も、釈迦の言うことなんか
信じてはいなかったということですよね。

弥勒信仰って何でしょうね。
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因果応報を問題なく成立させるために


輪廻転生が採用されました。

そのため、輪廻転生を否定すると
バランスが取れなくなります。
閻魔大王の裁判なんてのも昔は流行ったそうですが。
ちなみに閻魔はインド神話の最初の人間で、最初に死んだヤマだそうです。

因果応報以外の世界観としては

「不条理」です。

なぜそれが起こるのかわからない。
納得いかない。理不尽な世界。

全ては胡蝶の夢なのか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6% …

さらには格義仏教というのもあったそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E7%BE%A9% …

今こそ格義仏教?どんなのか知りませんが。
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この回答へのお礼

>そのため、輪廻転生を否定するとバランスが取れなくなります。
これをいれるとバランスとれますけれど、
バランスとったところで記憶ないし、どうかなってとこです。

不条理ですかね。

回答どうもです。

お礼日時:2012/09/16 14:22

説教-2



病気だから仕方がないというならなぜ因果応報を持ち出したのですか。
自分のそれが因果応報によるものではないかと疑ったからでしょう。
因果はたいてい罪と罰がセットになっていますが必ずしもそうとは限らないでしょう。
だからあなたのそれが罪による罰とは言えません。
しかし、因果の連鎖による結果であることは間違いないはずです。
日々の思考の結果、うつ病と診断されるに至る結果となったのですから。
心理的苦痛という結果にはからならず心理的要因という原因があるはずです。
それを自分自身の中で見出してください
うつ病の改善には自分自身の理解が不可欠です。
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この回答へのお礼

たしかに思考的には
メランコリーだとか、考えすぎだとか自覚していました。あとひどい目にあったとか。

それらを断ち切ろうと当時最良の決定をしたところ病気になってしまいました。
想像してもいなかった状態が起こったので事故と一緒かも。
心理的要因はありましたが、想定外でした。

事故を起こす可能性があるから、車に乗るなみたいな発想でもあります。

>それを自分自身の中で見出してください
多分よく考えれば見出しているような気がしますので、適当にがんばってみます。
回答どうもです。

お礼日時:2012/09/16 14:18

#7です。

お礼ありがとうございます。

>生かされてるとか感謝とかってだれにですか?

生命の根源に生かされている。その神秘に感謝する。
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この回答へのお礼

天地に感謝するってことですか。
参考にさせていただきます。どうもです。

お礼日時:2012/09/16 14:09

  因果応報などはありません!良い事を行ったから良い事が起こる、そんな因果応報はありません。



  釈迦はそんな事は言ってません   いい加減に眼を醒まさないと。社会を安定させる為にそいう

  事が言われて来たのかも知れません。


  ただし社会が成熟するに連れて良い行いをした方が良い結果が返ってくる確立は高いです社会心理学


  社会学でも勉強してください。
  
  

   ただしやった事に対しては何だかの応報は帰ってきますよね(どんな応報かは誰にも判りません、仏の見知る)。
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この回答へのお礼

>社会学でも勉強してください。
してみます。
回答どうもです

お礼日時:2012/09/15 22:58

以下に書く文章は、飽くまで私自身の私見なのでご参考程度までに読んで下さい。



因果応報を説明するのに、人間の心理的作用として次の二つが前提になると私は考えています。

まず初めに、人間には心理的作用として返報性というものが存在します。
返報性とは、誰かに恩を受けたら「恩を返したい」、誰かに言われの無い仕打ちを受けたら「仇を返したい」と思う気持ちの作用の事を指します。

次に、人間は主観から抜けきれないという性質を持っています。
アメリカの心理学者、行動科学者バラス・スキナーは、スキナー・ボックスという実験装置を作り、鳩の行動を観察しました。
最初はボタンを押すと餌が出る、というような仕組みをもった箱を作り、そこに鳩を入れました。鳩は自分が餌を食べたい時に、その分だけボタンを押すようになりました。
しかし、ここで行為と結果が連動するこのボックスを改造し、連動しなくなるようにしました。つまり鳩がボタンを押す/押さないに関わらず、ランダムに餌が出るようにしたのです。

http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20100201
より引用。
実験室に話を戻すと、スキナーは、それぞれ異なった目的をもつありとあらゆる種類のスキナーボックスを作り出して、膨大な研究集団を組織し研究を進めた。そして一九四八年、スキナーボックスの基本は踏襲しつつも、ある天才的な仕組みを考案した。彼は、行為と報酬の因果関係を完全に切断してみたのである。彼は、鳩が何もしていなくとも、時々「報酬を与える」ように装置を設定した。こうなると実際に鳩に必要なことは、くつろいで報酬を待つことだけである。しかし実際には鳩はこのようにはしなかった。そのかわり、八例中六例で、鳩は、まるで自分たちが報酬を受けられる動作を身に付けているかのように、スキナーが「迷信行動」と呼ぶものを作りあげたのである。正確に言うと、こうした行動の内容は鳩によって異なっていた。次に「報酬」がもらえるまで、一羽は独楽のように回転し、二、三羽は反時計回りに回った。別の鳩は箱の特定の上方の角に向かって繰り返し頭を突き出した。また別の鳩は頭で見えないカーテンを持ち上げるかのように、「ぐいと持ち上げる」行動を示した。二羽は別々に、頭や体を周期的に左右に「振子を揺らす」ような動作を開発した。この最後の動作は、たまたまではあるが、何羽かのゴクラクチョウの求愛ダンスにかなり類似したものに見えたに違いない。スキナーが迷信という言葉を使ったのは、鳩が、本当はそうでないのに、まるで自らの一定の動作が原因となって、報酬のからくりに影響を及ぼしていると考えているかのように行動したからである。
==引用終わり==

これは人間にも当てはまります。自分の行動が起因となって世界に影響を与える事ができるのだという思考(例としては雨乞いなど)、あるいは自分が信ずる超常現象がその現象を起こしているのだという思考(例としては、日蝕を見た人間が「太陽が月で隠れているから」といった観測ではなく、「神がお怒りになられているから」と言った想像から来る信仰)など、こうした主観から基本逃れられないのが人間だと私は考えています。

そして、上記を併せると「人間が悪い事をしたら悪い結果が返ってくる、良い事をしたら良い結果が返ってくる。この世はそうでなければならない。」と主観で考え込んでしまっているのが因果応報という思考なのではないかと私は考えています。

つまりは因果応報という言葉は、個人のレベルにおいては存在し得ない事になります。
もし存在しえたなら、共和制ローマにおける虐殺を繰り返したスッラは誰かに殺されなければなりませんが、この人は天寿を全うしています(正確には病死ですが)。
また、大粛清を行ったスターリンも応報は受けていません。

それでは良い事を行う事は無駄なのでしょうか。悪い事を思いのままに行った方が良いのでしょうか。
宗教的な話しは避けるべきでしょうが、少し書かせて下さい。

人間は誰しも、神様のような存在から、天命のようなものを与えられているのだと思います。
人は与えられた天命を生きれば良いのだと思います。
他人と比較しても意味がありません。

その課せられた使命のようなものは人それぞれに違いますが、それを全うすれば良いのではないかと。
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この回答へのお礼

はとの件は参考になりました。
応報はある程度ありますよ。ひどい目に合わせた奴から何かしらの復讐ある場合もあるしね。
回答どうもです

お礼日時:2012/09/15 23:05

>「


神風特攻隊やドイツのホロコーストなどの死者は因果も応報もありません。
不幸な時代の不幸な役回りになってしまっただけです。


・・・関係者の因果応報を度外視してしまっていますね。
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結論から言えば「因果的」に捉えるべきものごとと、「非因果的」(「相関的」、「偶有性」)に捉えるべきものごとがあるということです。



不幸な時代に生まれてしまったということ。。。

これは、どちらかといえば、運命とか偶然とか、宿命とか奇蹟とか、因果とかいった概念ではなく、偶有性という概念で捉えるべきものごとだと思います。

>>> 偶有性――他者を想う可能性 http://genxx.com/blog/archives/000187.html
偶有性(contingency)とは、「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」ことだった。なにも難しい言葉を使わなくても、たとえば「運が悪い」ってのも偶有性の問題だ。論理的必然性、および明確な因果関係は無い、けれどもなぜか自分が被害者に選ばれてしまった、ということ。たとえば、運転士の速度超過など、脱線事故に必然性があったとしても、わたしの恋人が犠牲者になる必然性は存在しなかった。わたしの恋人が命を落としたのは、偶有性の問題だ。
<<<

因果関係は説得力があり、何事か不都合なことが生じると、「誰かの責任」として追求するための根拠として用いられることが往々にしてありますが、原因が多岐に渡る場合が多いでしょうし、本質的には「全体」の変化として捉えるべきものが多くあると思います。
「全体」の変化の原因を、過去の「全体」に見るにしても、外部の神的な力に見るにしても、原因の追及そのものは霧散してしまいます。
「生じてしまったこと」については、過去を遡るよりも、「これからどうすればいいのか」を積極的に考えるべきだと思います。

あらゆるものごとを「因果」のみで論じようとすると、全体の変化を見落としてしまい、誤って対象を切り離してしまうこともあるでしょう。中世の「魔女狩り」にその片鱗を見ることができますし、ホロコーストも、誤った局所レベルの因果関係(優生学)が元となっています。

因果関係でいうなら、戦争による不幸やロストジェネレーションに代表される不幸は「全体が変化し、個々が切り離された」ことが原因と考えるべきでしょうから、「全体の変化」の内部で生じた以上、「全体を変化させる」ことでしか、解決不可能な問題ともいえるのではないでしょうか?

相互に力を及ぼしうる範囲での物質レベルでの関係は、予測や制御といった科学的・論理的な思索が有効なように、因果関係で説明可能な範疇であり、因果関係は強力な道具でもあります。

しかしながら、「生命・こころ・魂」といった概念が入った途端、全てを因果で片付けることは不可能になります。
生物学的な共生・共進化、心理学や医療で扱われるような人間同士の関係は、個別に分断して因果で扱うことが不可能なものごとになるでしょう。。。「全体」として捉えるべきものが含まれています。
季刊誌「生命誌」通 巻32号
共生・共進化 時間と空間の中でつながる生きものたち:目次 >
花のゆりかごと空飛ぶ花粉 ─ イチジクとイチジクコバチの共進化:横山潤┼蘇智慧
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/032/ss_2. …

また、物質レベルでも量子力学のレベルになると、因果関係ではなく相関関係が支配的になるようです。

※仏教における因果と、その適応範囲について。。。
因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。
http://jinen.exblog.jp/7512021/
一般的な仏教では「生死を越えた因果」を強調しているように捉えられていますが、スッタニパータ(原始仏教に近い言葉、日本語訳・解説は「ブッダのことば」、中村 元、岩波文庫)「生死を越えての因果」については「あるのでもなく、ないのでもない」という立場をとっているようです。
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この回答へのお礼

お答えが高度過ぎて、もう少し読み砕かないと。。。
>「これからどうすればいいのか」を積極的に考えるべきだと思います。
でもこれが飯井かもしれませんね。
回答どうもです

お礼日時:2012/09/15 23:10

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Q仏教の教えの矛盾?

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
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生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべき...続きを読む

Aベストアンサー

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
>>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。
>>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。
 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。
 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 

>>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。
 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。
 まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫)

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ
ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです)

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
(文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう)

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。

 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が

サーティ比丘は
「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」
と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して
「サーティよ、その識とはどんなものですか?」
と問いかけると
「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
と答えたするとお釈迦様は
「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。
と御叱りになった。

というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。
 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。

 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
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