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銀行のATMに並ぶ、というようなときにニュージーランド人は前のひとからかなり離れて立つ。1メートルはふつうでひとによっては3メートルくらいも離れてたっていることさえあるので、「ATMに並んでるんですか?」と言葉にして質問することを要する。
iPodの白いイヤフォンをして、なんだか明後日の方角を向いて気楽に鼻歌をうたっていても、訊いてみるとたいていは答えは「Yes」です。
イギリス人も近くに立たれるということをたいへん嫌うのでニュージーランドで新しくできた文化であるよりも、もともとのイギリス人文化が南半球に越してきたのだと思われるが、イギリスではわしガキの頃から思い出してみてもやや個体間距離が縮まったのに比してニュージーランドでは逆に広くなってきた。
なぜだかは、わからん。
ただ現実として同じ文化に発した北ではせばまり、2万キロ南の此方(こなた)では広くなった。
いちばん身体的に肉迫してくるのは半島人で、よくパケハ人(白人のことです)の話題になる。
わしもいちどブラックジャックテーブルに座っていて妙な気配がするので、ちょっと顔を横に向けたら、左上方1インチくらいのところに人の無表情な顔があって「きゃあ」になったことがある。
このひとも韓国のひとで、別にわしの美しいうなじにそっと口づけをしようとしていたのではなくてブラックジャックゲームの物珍しさに見入っていただけのようでした。
中国の人も西洋人に較べれば互いの距離が近いが、普段は半島人ほど物理的距離をつめているわけではなくて、観察していると、たとえば飛行機の搭乗の列でえらくへっついて並んでいるのは、どうも「割り込まれないため」であるらしい。
ボーディングタイムが近づくにつれて、じりじりと、黒澤映画の剣豪同士が間合いをつめてゆくように、前の人の背中に、にじりよってゆく。
ニュージーランド人はマヌケなので、思い詰めた中国人たちの決意も知らずに、のほほんと、どおおおーんと間を開けて立っているが、そうすると中国の人が小走りに来て「しゅたっ」という感じで割り込みます。
あまつさえ、くるっとふりかえって、友達に手招きをして嬉しそうな顔で「ここに隙間がある。ここに入れ」と手振りで伝えている。
割り込まれた金髪の若いおかーさんは、ちらと中国のひとを瞥見しただけで、なにごともなかったかのように相変わらず子供に話しかけている。
無論、気が付かないのではなくて、内心は怒っているが、相手が中国のひとでは何を言っても仕方がないと思っているので、まるで目の前の無礼な中国人たちが存在しないかのようにふるまっている。
あんまりよく考えなくても立派な差別だが、しかし、欧州でもニュージーランドでも最近はこれが一般的な態度と言えなくもなくて中国の人は視界に存在しても存在しないかのごとく振る舞う人がおおくなった。
わしが中国人なら悲しいだろうと思うが、しかし観察の限りでは中国の人の方でも特に気にしているようには見えなくて、なんだか位相の異なる、お互いに不可視不可触のふたつの次元が同一空間に重なっているようで奇妙な具合である。
もしかするとどひらかが言葉の真に意味ではとっくに幽霊になっているのかもしれません。
中国のひとは、自分の身体のまわりに開けておく空間が可変域になっているもののよーである。
日本の人はちょうど半島人と西洋人のあいだくらいの物理距離を好むように見えるが、真に特徴的なのは距離そのものではなくて各人が綺麗に同じ距離を保ってたっていることで、見ていると日本のひとの集団には見えない物差しがついていて、それで計って並んでいるかのように見える。多分、「並ぶ訓練」、わしは例の「前へならえ」を疑っているが、整列の訓練がいきとどいていて体に感覚としてしみこんでいるのではないかと思う。
見ていて、面白いなあ、と思います。
パリの(たとえばサンジェルマン・デュプレの)レストラン街でもひとめでそれと判るアメリカ人の観光客たちが大行列をつくってマクドナルドに並んでいるが、意外にやありける、アメリカ人たちも日本人に似て、日本人よりはだいぶん広くはあるが計ったように等間隔で列をなしていて、アメリカの社会にも日本の軍隊式とは異なる何らかの均質性があるのがみてとれる。
均質性の淵源をなすものを考えると、どのひとも判で押したようにまったく同じようなフェースブックの笑顔が思い浮かぶが、そのマスプロダクションじみた笑顔の鋳型がなんであるのかは、わしにはわかりません。
むかし、一緒にでかけたアトランタの町で、少し上を向いて、おおらかな外股でのおんびり歩くアメリカ南部人たちを見て、「あれは梅毒が発症して誇大妄想になったあとのニーチェの歩き方だな」と義理叔父が述べていたが、歩き方や並び方には、どうも社会のありかたがおおきく反映するようです。
それは個人が家庭のなかで占有する空間のおおきさに関係があるようにも見え、その空間のおおきさは(移民の流入を別勘定にした)人口増加率にも関係があるように見えるが、いまはクリスマスで、そういうことを考えるには向いている季節ではないので、エッグノグを飲んで、ま、年があけたらひまつぶしに考えればいいか、と思う。
2
ツイッタでときどき話をする相手に「花男」さんという人がいる。
こちらに歌舞伎の知識があれば、もっとずっと面白い話ができそうだが、能楽は大好きでも歌舞伎はパーなので、いつもはたいした話ができません。
ただ何の話でそうなったのか忘れたが「口語は要するに文語の一形態だから」と述べたら、あっさり判ってもらえたので、あっ、このひとはそういう言葉の問題について時間を使って考えたことがあるひとなのだな、と思った。
日本語に限らずどんな言語でも口語は話し言葉との距離が小さい書き言葉であって話し言葉とは本質的に異なる。
誰かが話したことを文字に書き起こすと、だからたいていは読めたものではなくて、冗長を極めることになるが、しかし、例外的にまったく論理的な文章を話し言葉で使えるひとはいる。口語と話し言葉の距離が無限に近くなって一緒の「話し言葉の文体」をもっているひとで、それが頭のなかで実現されるためにはぼんやりした想像を遙かに超える論理性がいる。
日本語の世界では、わしはそういう稀なタイプの知性をもつひとをふたり知っている。
大平正芳というひとがそのうちのひとりで、このひとは頭のなかに推敲装置がついているようなしゃべり言葉なので、義理叔父の家でビデオを見てぶっくらこいてしまったことがある。
もうひとりが、知っているひとは少ないに決まってるが下地真樹というひとで阪南大学という、本人の言葉によれば、「マンガの花の応援団のモデルになった」大学の准教授のひとです。
やはりツイッタで会った友達の「さよりさん」というひとに教えてもらったのだと思うが、いま維新の党とかいうチョーだっさい名前の政党党首になっている大阪市長の橋下徹が開催した瓦礫焼却についての市民公聴会だかなんだかのビデオで初めて見て、こっちは大平正芳どころではなく、ぶっとんでしまった
原稿もメモもなしで立ち上がって、しかもコーフン気味に話していることが、そのまま理路整然とした文章になっているからで、いったいこーゆーひとの頭のなかはどうなっているのだろう、と考えた。
明晰、というかなんというか。
非情に強い印象をもって記憶にやきついたひとだった。
しかもわしは相変わらずマヌケで、知らなかったが、このひとがわしのツイッタアカウントをなぜかフォローしていたのを発見して、いつも「はらへった」とか「ちんちんがくさるー」ばっかし述べているわしの純粋理性豊穣なツイートを、日頃、この明晰なひとはどんな気持ちで読んでいるのだろーか、と考えて胸が痛くなりました。
ぶっとびはぶっとびを呼ぶ。
驚いたことに、ある朝突然、この下地真樹というひとが逮捕されてしまったのだった。
なんで?と思って調べてみると、詳しいことは自分で調べればよいが、要するに「自分の意見を述べたから」という理由で逮捕されたようでした。
日本ではほんとうのことを言うとたいへんなことになる、というのは知っていたが逮捕までされるとは知らなかったので、わしはマジでびっくりしてしまった。
マジでびっくりした、という言葉がケーハクなら、風儀を重んじるひとびとのために、深甚な衝撃を受けた、と言い直しても良い。いまどきの世の中で駅頭に立ってほんとうのことを述べたからといって身体が拘束されるなんて聞いたことがない。
足を踏んだから、とか、配下の者を使嗾して他人の足を踏ませた罪による(^^;)とか、いろいろ述べているひともいるが、正気のひとがたとえば英語世界で大声で言えるような理由ではないので、そんな変態みたいな理屈はどうでもよい。
要するに「ほんとうのことを言ったら身体を拘束された」という事実だけで十分であると思われる。
と、ここまで書いてきたら、なんだか続きを書くのが嫌になってしまった。
それはなんと言ってもいまがクリスマスの時期だからで、わしがいるところは夏で暖かくてもyoutubeに映っている下地真樹は分厚いジャケットを着込んでいてもまだ寒そうで、その冷たい大気の町の、待遇が非人間的なので英語世界でも知れ渡っている警察の拘置所に下地真樹という精妙な知性は閉じ込められてしまった。
youtubeに映っている下地真樹の顔は、繊細で優しい人間の顔であって、このひとの贅肉がない話し言葉がどういう種類の精密な神経から生まれてくるのかがわかるような表情をしている。
わしは気が付かなかったが、いまクライストチャーチに滞在している義理叔父がyoutubeで「わたしと下地を助けてください」と述べている下地真樹の奥さんは中国の人のアクセントに聞こえると教えてくれた。
言いながら最近年をとって涙腺がゆるい義理叔父はもうみるみるうちに涙ぐんでいる。
しょもない感傷的オヤジである義理叔父からすると、家族に連絡もとらせない世界になだたる悪名高い専制警察(英語雑誌や新聞では何度もその酷い実態が特集されている)である日本の警察に夫をとられて、ひとりで、にわかには信じがたいような冷淡な反応しかしめさない、人間の感情をもたない一枚の巨大な冷たい壁のような日本の社会とむかいあっている女びとの気持ちがいたたまれないほど胸にしみているのだと思われる。
日本人の、特に同業者である大学人の下地真樹逮捕への他人事然とした冷淡な反応は、もうすぐ自分たちに跳ね返ってくるだろう。
ほんとうは、原発と福島第一事故を挟んで下地真樹と正反対の立場に立っている大学人であっても恐慌したひとのように瞬間のバネの力で結束して抗議しなければならなかったはずである。
現実はそうはならなかった。
日本の大学人は下地真樹の「支持者」たちが「不当勾留」「官憲」「不当逮捕」というような古くさく硬直した「反体制運動」の臭いがする抗議の言葉を乱発することにおいて、かろうじて自分がなにもしようとしないでいることへの微かな言い訳と良心への慰撫をみいだしたもののよーでした。
「モジモジというひとは芸人だとばかり思っていたが、今回の騒ぎで改めて見ると研究者だったのでブロックしていたのをはずした」
と書いている暢気な「大学人」がいたが、日本では大学人であることは「トーダイ卒」であることと同じで、ダグラスマッカーサーの進駐軍が廃止してしまった階級社会に替わる疑似階級社会の社会地位を示す記号にしかすぎないのかもしれないと思わせた。
オークランドの交差点で信号を待っていて、隣に立つ見知らぬ人と目があえば、「やあ、今日はいい天気だとおもわんかね」と言うのは普通のことである。
社会を構成する人間間で「仲間意識」というものがなくなってしまえば社会はひとたまりもなく、ただ肉体が生きて社会の部品として労働するだけの、死せる魂が寄り合った墓場になってしまうのをよく知っているからで、羊といえども一頭が屠殺場にひかれていけば異常を感じて体をよせあって緊張するのに、その始原的な能力さえ無関心が殺してしまっては、民主主義もなにも、社会の体さえなさなくなって終わりだろう、と悪態をつきたくなってしまうのです。
名無しですが、えーたい面白く読まいてもらっちょります。
にっぽん人の「真に特徴的」なふるまいの指摘には当たり杉でぞっとしました。
「鴨川等間隔の法則」てご存知ですか?
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