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世の中は分布です。 ですから全部が悪いとは言いません。 まっとうな人たちもいる。 けれど交差点で1件でも事故が起きたなら、全国の交差点に信号機を設置する他ないのです。 世の中とはそういうものです。 |
通州事件が起きたのは昭和12(1937)年7月29日です。
この時期Chinaでは民主主義を標榜(ひょうぼう)する国民党と、共産主義化を標榜する中国共産党が、互いに火花を散らす内乱
状態が続いていました。
日本は先進11カ国とともにChinaに、China内の治安維持のための派兵をしていました。
もちろんChina内にも、自分たちの治安を自分たちで守りたいと、保安隊を編成する人たちがいました。
そのなかのひとつに「冀東(きとう)防共自治政府」がありました。
Chineseたちが自分たちの安全と安心できる暮らしのために、自治政府を構築し、また自分たちで保安隊(実際には軍隊)を編成することは、海外から治安維持活動のために兵を駐屯させている日本にとって歓迎すべきことです。
Chinaに派兵していた外国軍の中には、Chineseたちが自分たちで武装することを拒否する国もありました。というより、むしろ欧米諸国はその政策でした。
彼らはChineseに武器など持たせたら、かえって治安が悪化するだけだ、という論でした。
これが逆にChineseたちの武装を積極的に支援するようになるのは、大正8年(1919)の第一次世界大戦の終戦処理を行ったパリ講和会議以降のことです。
この動きは、大正11年(1921)のワシントン軍縮会議で日英同盟が破棄されて以降、本格化していきました。
それから16年、China国内では、あちこちの国から行われた軍事支援によって、軍閥や各地の自治政府がますます武装して力を持つようになっていきました。
Chinaでは、伝統的に軍と暴徒とヤクザは同じものです。
武器を手にした若者たちは、民家を襲って食料を奪う。
奪われる側の民衆も武器を手にして保安隊を構成する。
両者の間に衝突が起こる。
犠牲者が出る。
この繰り返しとなっていたわけです。
昭和12年当時、日本陸軍は、冀東防共自治政府保安隊に軍事指導や支援を行っていました。
両者の関係はとても良好なものでした。
日本は、しっかりとした人材に、しっかりとした保安隊を組織させ、しっかりとした教練と教育を施すことで彼らが圧倒的な実力を身につけていけば、必ずChinaの人々は目覚め、自分たちでしっかりと治安を維持し、国を営むことができるようになると信じ、そのように行動しました。
しかしその保安隊の中に、悪魔がひそんでいました。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |

事件の起きた通州(つうしゅう)は、北京の東十八キロのに位置する都市で、明朝時代に城壁が築かれました。
天津からの集荷の拠点として栄え、事件直前までは日本人にとっても、Chineseにとってもたいへん治安の良い場所になっていました。
街の警備は日本軍と冀東防共自治政府の保安隊があたっていました。
けれど昭和12年(1937)7月7日に盧溝橋事件が起き、同月25日に廊坊事件、26日に広安門事件が起きたため、通州にいた日本陸軍にも転進命令が出され、わずか110名の兵を残しただけで、本体は北京南苑での治安活動(平津作戦)のために出動しました。
通州にはChineseの保安隊があるから、大丈夫であろうという判断がはたらいたのです。
7月29日、通州には385名の日本人がいました。
このうち軍関係者(男)は110名。残りは婦女子だけです。
午前三時のことです。
冀東防共自治政府の保安隊は、自分たちのボスである殷汝耕を突然、拘束しました。
そして張慶余(ちょうけいよ)率いる第一総隊と、張硯田(ちょうしだ)率いる第二教導総隊の3000の兵が、日本軍の基地に攻撃をしかけてきました。
不意をつかれた日本軍は、獅子奮迅の防戦をしました。
しかし3000対110です。
しかも寝込みを襲われました。
日本軍は、襲撃と同時に30名を失いました。
この戦闘の最中に保安隊は、日本人の民間人への虐殺を開始しました。
そして日本人223名が、人類史上まれなる残虐な方法で虐殺されました。
これが通州事件です。
いわゆる南京事件やパターン行軍などは、あからさまな捏造ですが、この通州事件は紛れもない事実です。
以下は、東京裁判における萱島高中将の供述です。
萱島中将は、当時支那駐屯歩兵第二連隊長として、この事件直後の通州に入られています。
「旭軒(飲食店)では、四十から十七、八歳までの女七、八名が
皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、
そのなか四、五名は陰部を銃剣で刺殺されていた。
商館や役所に残された日本人男子の死体は
ほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、
血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
支那駐屯歩兵第二連隊歩兵砲中隊長代理、桂鎮雄元少佐の供述
「錦水楼入口で女将らしき人の死体を見た。
足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。
本人は相当に抵抗したらしく、
着物は寝た上で剥がされたらしく、
上半身も下半身も暴露し、
四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、
略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、
全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、
一名だけは局部を露出し上向きになっていた。
ある帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、
或いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、
闘った跡は明瞭で、
男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。
女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、
局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
一年前に行ったことのあるカフェでは、
縄で絞殺された素っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。
子供は手の指を揃えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、
主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、
胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。」
支那駐屯歩兵第二連隊小隊長、桜井文雄元少佐の供述
「守備隊の東門を出ると、
ほとんど数間(すうけん)間隔に
居留民男女の惨殺死体が横たわっており、
一同悲憤の極みに達した。
『日本人はいないか?』
と連呼しながら各戸毎に調査していくと、
鼻に牛の如く針金を通された子供や、
片腕を切られた老女、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が
そこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では
一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。
婦人という婦人は十四、五歳以上は
ことごとく強姦されており、
全く見るに忍びなかった。
旭軒では七、八名の女は全部
裸体にされ強姦刺殺されており、
陰部にほうきを押し込んである者、
口中に土砂をつめてある者、
腹を縦に断ち割ってある者など、
見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて
それに八番鉄線を貫き通し、
一家六人数珠つなぎにして
引き回された形跡歴然たる死体があった。
池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。」
実に悪鬼も目をそむける惨たらしい所業ですが、これらはChinaで行われる集団暴行では、昔から行われてきた、ある意味一般的な手口といえます。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機元総理の戦陣訓を、日本軍の集団自決や玉砕の理由にする人がいますが、これはそうではなくて、内地とはまったく異なるChinaにおいて、義和団事件以降、幾度もChineseの残虐性に巻き込まれた日本の兵隊さんへの、せめてもの情であったと解するべきです。
通州事件では、その後の調べで、事件は突発性のものではなく、あらかじめ入念に計画されたものであったことが明確になっています。
襲撃した連中は、襲撃対象の日本人居宅を、あらかじめリストアップし、入り口にチョークで印を付けていたのです。
通州での殺戮と略奪は、まる一日続けられました。
そのなかでひとつ、涙なくしては語れない物語があります。
ある人が便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。
その声は、日本語で次のように叫んでいました。
「日本人は隠れろ!
日本人は誰も出てくるな!!
日本人は逃げろ〜〜っ!!!」
必死の叫び声だったそうです。
そして、ズドンという銃声。
以降、その声は聞こえなくなりました。
わずか110名の日本軍守備隊に、3000人もの人で襲い掛かったChinese。
そのChineseの暴徒たちに引きずられながら、その日本人男性は、最後の瞬間まで、自分のことではなく、ほかの日本人の心配をしていたのです。
だから「助けてくれー」ではなく、
「日本人は逃げろー!」だったのです。
事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島連隊が、事態を知って通州に急行しました。
夕方まで非武装の日本人民間人を虐殺し続けた張慶余と張硯田率いる中国軍保安隊は、萱島部隊がもどると聞いて逃走し、北京へ向かいました。そして翌30日に北京付近で日本軍と遭遇しました。
そして3000のChina保安隊は、たちまち粉砕されています。
このとき、虐殺の指揮側であった張慶余と張硯田は、さっとChineseの国民服である便衣服に着替え、戦っている味方さえも放置して、ひとあし先に逃げ出しています。
そしてこの二人はその後も戦争を生き延び、張慶余は後年、China共産党の人民解放軍の中将にまで出世し、昭和61年(1986)には、 革命の英雄気取りでウソ八百の回想録まで出版しています。
保安隊の総責任者で、日本人女性を妻にしていた長官の殷汝耕は、事件後、日本軍のもとに戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活動をしたものの、日本が降伏した後、蒋介石によって「親日分子」の烙印をおされて処刑によって亡くなっています。
その蒋介石は、通州事件の十年前、以後国民党の居城となる南京に攻め込んで、各国の領事館を襲撃し、各国の領事や婦女子に暴行を加えて、これを殺害しています。
このとき米英は共同して砲艦で蒋介石軍を徹底攻撃し、生き残った自国民の救出をしています。
世界の常識は、通州事件のような残虐な事件が起こったときには、これは世界中どこの国でも、徹底的な報復と賠償を求めます。
四千名の居留民が襲われ、ほぼ無傷で全員が助かった義和団事件でさえ、当時の清朝政府の年間予算をはるかに上回る賠償請求がなされたのです。
では日本は通州事件の後、いったいどのような要求をしたのでしょうか。
実は事件後、日頃は仲の決して良くないといわれる陸軍省と海軍省の意見が一致し、内閣満場一致で決めた対策があります。
それが「船津工作」と呼ばれるものです。
「船津工作」というのは、日本の民間人で、中国からの信頼の厚い元外交官の実業家であり紡績業組合の理事長をしていた船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、蒋介石側に和平を働きかけるというものです。
その内容は、それまでの中国側の言い分を、日本にとって不利益なこともふくめて全部まるのみするから、争いを止めようというものでした。
なんと、日本が満洲事変以後に得た権益のほとんどを放棄する代わりに、China側は満州国を黙認し、反日運動を取り締まるというもので、これは当時の国民党の主張と一致するものでした。
つまり日本は、China国民党の日本に対する政治的主張を、まるのみしたのです。
まるのみならば、China国民党は、それ以上、日本と争う理由がなくなります。
あれだけひどい惨事となった通州事件についてさえ、日本はいっさいの賠償請求をしないというのです。
日本は、平和のために、そこまで譲歩をしました。
これが日本ではなく、もしいまどきのKoreaやChinaでしたら、どのような行動に出るでしょうか。
あるいはアメリカでもイギリスでもフランスやドイツでもいいです。
確実なことは、日本のように、あらゆる横暴に目をつぶるから和平を結びましょうとは、絶対に言わないというこ
とです。
千年たっても恨みは忘れないどころか、それこそ核の雨が降る話にさえなろうかと思います。
けれど日本は譲歩しました。
この事件に関し、日本側にはまったく非がありません。
非は明らかにChinaの側にあります。
民間人を含む223名が虐殺されたのです。しかも人の所業とは思えないような、むごい殺戮です。
それでも日本は我慢しました。
通州事件の被害者には、当然のことながら日本国内にその家族や親戚がいるわけです。
身内を失った、それも想像を絶するような残酷な方法で殺された親族にしてみれば、まさに怒髪天を抜く怒りがあったでしょう。
復讐したいという気持ちもあったことでしょう。
けれどその親族たちさえも、みんな我慢したのです。
残酷に殺されたからといって、仕返しのためにまたこちらが手を出せば、それを恨んで、また彼らは報復と称して残酷な仕打ちをしてくる。
それではキリがないからです。
だから我慢しました。親族だけでなく、日本は国をあげて我慢したのです。
悲惨な争いを、これ以上拡大したくなかったのです。
日本とChina国民党は同年8月9日に、上海で船津工作に基づく現地停戦協定を結ぶことになりました。
いよいよその当日、午後から調印式というときに、調印場所の上海で起こったのが、大山中尉虐殺事件です。
この事件は、海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が車で走行中に、Chinaの保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて殺されたという事件です。
この事件では、運転手は即死。
かろうじて虫の息があった大山中尉は、車外に引きずり出されて頭部を青竜刀でまっ二つに割られています。
この緊急事態発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になってしまいました。
日本政府は、さすがにこれ以上のChinaでの民間人の犠牲を防ぐために、Chinaにいる邦人たちに帰国を勧奨しました。
当時のChinaから日本本土への帰郷は、上海からの船便です。
そのためChina全土にいた日本人3万人が上海に集結しました。
そしてその3万人の邦人を警備するのは、わずか2200人の海軍陸戦隊でした。
海軍陸戦隊のこのときの任務は、邦人たちが無事に帰還船に乗るまでの警護です。
警護が目的だから、わずか2200人の兵だったのです。
通州事件から1週間目のことです。
その上海に、China国民党は、なんと5万の精鋭部隊を上海に送り込み、日本軍と民間人3万人を包囲全滅しようとしました。
このときの海軍陸戦隊の活躍は、まさに戦史に残る偉大なものです。
かれらはわずか2200名、途中海上にいた2000名の増員を得て合計4200名で、なんと5万の大軍を相手に、まる二週間も持ちこたえ、3万人の邦人たちを護り抜いたのです。
もし海軍陸戦隊のこのとき敗れていたら、上海にいた日本人、そして同じく上海市内にいた親日派のChineseの身に、何が起こったでしょうか。
通州事件の何十倍もの惨劇を防いだのは、日本の海軍陸戦隊の勇敢な戦いにありました。
では、海軍陸戦隊が上海で必死に戦っていた二週間、日本政府は何をやっていたのでしょうか。
時の内閣は近衛文麿内閣です。
そう、喧々囂々(けんけんがくがく)をしていました。
断固戦うべしという議論と、軍は派遣すべきでないという議論がまっ二つに分かれて紛糾し、何も決断できずにいたのです。
結果として二週間もたってから、一向に事態が沈静化しない状況の中で、日本政府は上海出兵を決断しました。
この決断によって、松井石根大将率いる十万の上海派遣軍が編成されました。
そしてようやく日本が軍を派遣したのが、9月9日でした。
それは大山中尉惨殺事件から、まる一カ月が経過していたときでした。
その一ヶ月の間に、China国民党は、なんと60万もの部隊を集め、2万個ものトーチカをつくって、まさに手ぐすねひいて上陸してくる日本軍を待ち受けていました。
このため松井大将率いる日本軍は、たいへんな苦戦を強いられています。
これが第二次上海事変です。
この事変で日本側は四41000名もの死傷者を出しています。
この数は、日清戦争の4倍、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。
二カ月後の11月10日、ついに日本軍は国民党軍を蹴散らして、上海の軍事的脅威を取り除きました。
このときのイギリスの新聞の報道が残っています。
「国民党軍の撤退によって、
上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が
非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。」
それが当時の世界の客観的な反応だったのです。
そして上海を落とした日本軍は、敵の本拠地である南京へと兵を進めました。
城の外側での激しい戦いのあと、日本側は一週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から南京城内にビラを撒いて告知したうえで、城外に待機しました。
南京の市民たちに十分な避難の期間を与えるためです。
そして12月10日、総攻撃開始。
12月13日、南京城陥落。
翌14日に城内に入城した第十軍の山崎参謀は、南京城の南端にある中華門から東端の中山門までを見分した情況を、日記に記録しています。
「南京城東部は、
広漠たる空地にして、
都市計画の雄大さを認む。」
つまり南京城内は、なにもない広大な空き地になっていたのです。
どういうことかというと、日本が攻めて来ることを知った国民党軍が、城内に日本軍が隠れないようにと、市民たちを強制的に追い出し、そこに火を放って何もかも燃やしてしまっていたのです。
同じく十四日の模様を、城内東北部の残敵を掃討した佐々木第三〇歩兵旅団長が日記に書いています。
「住民はひとりも顔を見せない。
痩せ犬だけが無表情に歩いたり、
寝そべったりしていた。」
歩兵第三八連隊の戦闘詳報には、次のように記されています。
「興衛および十字街付近は、
小集落の点在をみるも、
住民は居住しあらず。
敵はこれらの家屋を
ほとんど焼却し退却せり。」
『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者も、当時の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「1937年12月7日日本軍が進撃し始めた。
これが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、
ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われた。
農業研究所、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(しゃーかん)にも向けられた。
中国軍による焼き払いの損害は優に3千万ドルにも及ぶ。」
この経緯のどこをどうしたら南京城内で日本軍が25万もの虐殺をしたことになるのでしょうか。
くだんの中国国民党総裁の蒋介石は、南京戦の始まる3日前の12月7日には、そそくさと南京から逃げ出しています。
蒋介石は、あれだけ準備した上海で日本軍に負けています。
日本軍の強さを思い知った蒋介石は、南京でも勝てないと踏んだわけです。
だから逃げたのです。
そして日本軍には、軍事力では勝てないと悟った蒋介石は、この時期から新しい対日戦闘を開始しました。
それが広告宣伝戦争(情報戦争)です。
蒋介石は、南京陥落の日の少し前から年間三百回にもなる記者会見を行うようになりました。
内外のジャーナリストや外交官など3〜40人の前で、日本がいかに不当であるかを、蒋介石自身が宣伝するというものです。
軍事で日本に勝てないから、パフォーマンスで勝とうとしたわけです。
同時にこれは、日本に負けて兵を失った蒋介石が、新たな兵を徴用するための広告宣伝活動でもありました。
要するにこのとき中国国民党は、日本と戦争していたわけですから、蒋介石は日本を非難するための宣伝材料を見つけたり、捏造したりしては、毎日記者会見をして、自分たちを正当化し、また日本軍の悪逆非道をアピールしていたのです。
これが年間三百回、毎日のように行われました。
中共政府は、日本軍が南京で虐殺を行ったと宣伝していますが、日本の自由主義史観研究会が、当時蒋介石自身が行った三百回におよぶすべての会見内容について詳細に分析を行いました。もし本当に日本が南京で虐殺を行っていたのなら、宣伝をする蒋介石にとって、それは格好の日本糾弾材料になったであろうからです。
ところが三百回にわたるその会見で、日本軍による南京での虐殺の話は、一回も行われていませんでした。
要するに日本軍による南京虐殺など「なかった」のです。
日本軍の占領後、南京は治安が回復し、少なくとも大東亜戦争が終わるまで、そこは日本人の若い女性が普通に市場で一人歩きしてショッピングを楽しんでも何ら問題が起こらない、平和な街となりました。
大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり、食料の供給もままならないひどい状態が続いていましたが、南京は、すくなくとも昭和二十(一九四五)年夏までは、きわめて平和で、食料も豊かで、軍事的脅威やテロの危険のない、安全な街であり続けたのです。
その南京が様変わりしたのは、終戦後、日本軍が去ったあとのことです。
中共軍が南京を制圧し、例のごとく残虐の限りを尽くし、一般市民10万名から15万名という、とほうもない死
傷者を出しています。
このとき、南京市民の3人に一人が殺害されました。
通州事件や南京での虐殺事件を起こした張本人が、実際にはありもしなかった日本軍による南京大虐殺なる虚構をこしらえ、これをいまでも宣伝しているのです。
日本人は、もう目を覚ますべき時です。
ひとつ申し上げたいことがあります。
悪が善を滅ぼして勝利したとき、悪は必ず嘘八百を用いて自分たちを正当化します。
そして必ず自分たちは被害者であったと声高に主張し、それは事実と異なると言う者を抹殺します。
これは必ず、そうします。
なぜなら、それ以外に自分たちの行動を正当化する手段がないからです。
また、敵の中にも有能な人がいたといった敵をたたえることは絶対に起こりません。
なぜなら敵をたたえることは、すなわち自分たちの非道が暴かれる原因をつくることだからです。
普通は、戦いというものは、甲乙どちらの側にも、それなりの言い分があるものです。
そしてこの両者が正々堂々と戦って白黒をつけたときには、勝者は敗者の中にも、必ず素晴らしい将軍がいた等々と、敵をたたえます。
なぜなら、敵が強くて優秀で立派で勇敢であればあるほど、それを正々堂々と戦って倒した将軍や国は、それ以上にすごい国ということになるからです。
ですから嘘を言う必要もありません。
むしろ記録としては、敵となり破れた側の心根を惜しむ記述がなされたりします。
源平合戦で勝利した源氏の時代に、平家一門の立派な最期を説いた平家物語がそうですし、アパッチ族の勇敢さを讃えた米国もまた同じです。
先の大戦のときに、米国太平洋艦隊を指揮したニミッツ提督は日本軍の優秀さを讃えました。
硫黄島の戦いの米軍スプルーアンス司令官は、戦後アメリカに帰ってから十数年間、米国全土で「日本には君達が想像もつかない立派な青年たちがいる」と講演しています。
蒋介石でさえ、拉孟・騰越の戦いの戦いその他において、日本軍の勇敢さを称えています。
正々堂々と互いに死力を尽くして戦ったときには、勝敗が決着した後、必ず勝者が敗者を称える動きがあるものです。
中共や南北Koreaにそれがありません。
ない理由は、彼らが正々堂々と日本と死力を尽くして戦ったことがないからです。
だから捏造してでも悪く言いたいし、そうする以外に自分たちを正当化する方法がないのです。
実にあわれなものです。
我々の先輩たちは、それをあわれと思うから、ある程度放置してきたのです。
「いまは彼らもまだ貧しい。
しかし彼らが実力がついて豊かになって
民度が上がれば、
必ず正しいことに目覚める。
だから少々の言いがかりは、
言いがかりと知って片目をつぶってやれ」
と言っていました。
実際、そう言われたし、それで様々な投資が実際に行われたものです。
とりわけ半島については、戦中までは日本の一部だったこともあり、子供の頃からの教育で半島人は日本人という意識が猛烈に強かった。
けれど彼らは、豊かにしてあげても民度があがることはなかったし、正しいことに目覚めることもありませんでした。
むしろ声高に日本が悪者であると言いつのり、ますます増長して、一方的に嘘を言うことが正義であり政府はおろか、裁判所の責務であると履き違える有様です。
世の中は分布です。
ですから全部が悪いとは言いません。
まっとうな人たちもいる。
けれど交差点で1件でも事故が起きたなら、全国の交差点に信号機を設置する他ないのです。
世の中とはそういうものです。
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