わたしという欠落

野原に立っていて、ぼんやりしていると、そうか、おれが空間を占有しているぶんだけ野原は欠けているのだな、と考える。

そう考えながら野原に出来ている、けものみちのような、人間が通った小径をたどっていると、「野原の欠損」が移動していって、一瞬前に移動した空間を、また野原の空気がうめもどしているような、空間の自己充填が察せられて、「人間が存在する」という不可思議のほうへ頭がかたむく。

友達と話していて、2014年に死んだ大好きな詩人Mark Strandの

KEEPING THINGS WHOLE   という詩をおもいだしていた。

In a field
I am the absence
of field
This is
always the case
Wherever I am
I am what is missing

When I walk
I part the air
and always
the air moves in
to fill the spaces
where my body’s been

We all have reasons
for moving.
I move
to keep things whole

完結した世界にぼっこりと生じて、ちょっと余ったような、世界のなかに存在する「自己」というものが、うまく表現されていて、巧みであるとおもう。

大通りを横切るときに、通りの向こう側へほんとうに着くかどうかを疑えないひとは、どこかで自己というものの存在を理解しそこなっているのではないかとおもうことがある。

暴走してきたクルマに勢いよく撥ねられて空高く自分の身体が舞い上がるのもそうだが、実際、通りを渡りきってしまう前に自分の肉体が消滅してしまうかもしれない、という気持が、心のどこかにない人とは、友達になれない気がする。

slackのスペースで年長の友人である哲人どんが

言語を使った複雑な思考のなかで意識される「私自身」とは、習得した言語体系に対する違和感としてくくり出される「余りの部分」と見るのが最もよい。習得した言語体系は、皆に共通の「欲求や事実認識の文化的シナリオ」になっています。その共通の文化的シナリオに違和感を覚えるのが、私自身、ということ。かけがえのない自分という存在は、共通の文化的シナリオで割り切ることができなくて「余り」になってしまう部分なのだ(と私は思います)。

と述べている。

言語がひとつの社会で果たしている役割についてのまっとうな洞察で、
特に日本語社会のような全体の側から個人の側への強制力を強くもった社会で、個人がどのように処していけば個人主義に基づいた人生を歩いて行けるか、おおきなヒントに満ちた意見陳述の一部だが、読んでいるほうは、
「余り」の悲哀ということも考えないわけにはいかない。

趣旨のほうにも反応して、実験科学の知見に基づいてdevil’s advocate的にデカルトの近代自我を仮定しなくても、認識哲学はなりたちうるのだと年長の友人が興味をもたなさそうなことを書いてはみたのだけど、「余り」としての人間の寂しさのほうに、より強い興味を感じていないと言えば、嘘になるだろう。

人間の存在の寂しさは、言語という、まるで洞窟の壁に書かれた「disk」のような表徴の寂しさから来ている。
まだ文字を持たなかったころの人間は、自分の感情をうまくいいあらわしえても、その言い表された言葉は、記憶の空中に消えていくほかはなかった。

自分が、野原のなかでは異物であって、しかも存在しうる時間が短い儚(はかな)い異物であることをつよく知っていた。

普遍語が共通してもっている、あの一種の「寂しさ」は、だから、
人間が自分の存在に対して持っている基本的な感情なのだろう。

では、どうすればいいのか、ということについてMark Strandは解答を示している。

立ち止まれば、停まっているあいだは、肉体は存在していても、きみ自身は消滅している。
歩きだすことによって、きみは、また存在を取り戻す。

言語の寂しさの広大な荒野を横切ってゆくきみの横顔の美しさだけが人間の尊厳を保証しているのだとおもいます。

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