新田 当時チューリップはドラムもいるからフォークじゃないと言われ、フォークのイベントからは敬遠されました。私は「ラブジェネレーション」というレコード会社主催の全国縦断コンサートを企画し、全国12ヵ所を回りました。こちらから全国に出向いて作品とアーティストを理解してもらおうと考えたのです。ラジオでもかかるようになって、ついに発売6ヵ月後の10月にオリコンチャートで1位になりました。
田家 そこからの快進撃はすごかったですよね。『夏色のおもいで』『銀の指環』と立て続けにヒットを飛ばし、全国ツアーもどこの会場も満員。特に女性ファンの熱気はアイドル顔負けでした。
そう言えばコンサートでタオルやTシャツなどを販売するのは今では当たり前ですが、こうしたキャラクタービジネスもチューリップが最初です。当時財津さんが「僕らは旅芸人一座だから」と冗談で言っていましたが、ライブに熱心だったのは、自分たちの本当の姿を知って欲しいという気持ちとともに、演奏にも自信があったことの裏返しなのでしょう。
伊藤 『心の旅』はチューリップにとっても日本の音楽にとっても大きな転機と言えます。「レコード芸術」という言葉がありますが、演奏を記録するだけではなく、一つの作品として作る試みはチューリップからはじまったとも言える。チューリップの仕事をして以降、よその会社からも「チューリップの音を作ってくれ」とショクナイ(内職)の依頼がたくさん来ました。
田家 今こっそり別の会社で働いていたら大問題ですが、当時のエンジニアはそうやって腕を磨いていましたからね。チューリップは「洋楽志向」での曲作りから演奏、ステージ、さらにはマネジメントまでそのすべてで成功したパイオニアと言っていいでしょうね。
新田 2枚目のアルバムの帯に「フォーク、ロックはもう飽き飽きしたよ。チューリップと呼んでくれ」と書いています。つまり、彼らの音楽はどのジャンル分けにも収まらない新しいものだった。ニューミュージックを作ったのはチューリップと言ってもいいし、その後Jポップの時代になりますが、チューリップの影響を受けていないミュージシャンを探すのは困難でしょう。
『週刊現代』2019年7月6日号より