夢を追いかけるために、大切な何かを手放さなければいけないときもある。青春の切ないワンシーンを、福岡から上京してきた5人組の「チューリップ」がみずみずしく描き出した。
田家 チューリップの『心の旅』が発売されたのは1973年4月20日。今から46年も前ですが、あの時の衝撃は今もはっきり覚えています。レコードに針を落とした瞬間、イントロもなくいきなり飛び込んできた「あーだから今夜だけは君をだいていたい」というボーカルは、『シー・ラヴズ・ユー』や『プリーズ・プリーズ・ミー』などビートルズを初めて聴いた瞬間に通じるインパクトがありました。
チューリップは'75年からコンサートツアー「LIVE!! ACT TULIP」をスタートさせました。考えてみれば、ツアータイトルがついた全国ツアーは彼らが日本で最初だと思いますし、バンド名が大書きされた楽器運搬用のトラックで全国ツアーを回ったのも彼らが最初のはずです。
伊藤 私はエンジニアとしてチューリップの録音に数多く関わってきましたが、『心の旅』が最初の仕事でした。それまでは幼児向けの楽曲やクラシック音楽の制作が多く、ポップスの経験がなかったんです。当時流行の洋楽などで予習してレコーディングに臨んだものの、いきなりボーカル、しかもサビから始まる曲と知って、面食らいました。
チューリップが登場する以前は、1曲だいたい1時間で録音していました。一方、彼らのレコーディングは常に丸一日確保していました。完成した曲を録音するのではなく、エンジニアとスタジオで音を作っていったのです。今では当たり前ですが、チューリップが先駆者でした。
田家 チューリップは'71年に博多から上京し、'72年、アルバムとシングルが同名の『魔法の黄色い靴』でデビューしました。この曲もビートルズ的で、業界内での評価は非常に高かった。吉田拓郎も自身がDJを務める深夜放送で『魔法の……』を何度もかけていたほどですが、セールス的には振るいませんでした。
新田 次の『一人の部屋』も斬新な詞サウンドで、個人的にはチューリップでいちばん好きな曲のひとつ。でも前作以上に苦戦しました。そこで彼らの所属事務所シンコーミュージックの草野昌一さんが「3枚目も売れなかったら福岡に帰すぞ!」と、財津(和夫)くんに言い渡したんです。
販売レーベルの東芝宣伝部には演歌、歌謡曲のスタッフは大勢いましたが、ロック分野の宣伝がまったくの手薄でした。そこで私が知人の宣伝マンをスカウトして、チューリップの専属宣伝マンにし、『心の旅』を売り続けた。当時の音楽業界では誰もやっていなかったことでした。
草野さんはハッパをかけただけだと思うけど、財津くんはその言葉を真剣に受けとめ、まさに背水の陣で臨んだのがあの曲だったのです。
田家 『心の旅』はヒットが大命題だったから、難解なものは避けてわかりやすいメロディーを最大限心がけたと聞きます。でも、それは決して妥協ではありません。ビートルズも初期の作品はシンプルで明快だけど、それを安易な曲という人はいないし、今聴いてもまったく古さがない。財津さんもそうした曲作りを目指したのでしょう。