ログバーナーの前で
シラズとローストビーフとプロシュートで
際限もなく話している
と書いて送ったら、友達から
「しかし、これを日本語だけで暮らしている人がわかるだろうか? ここで立ち上がろうとしている世界と、日本語の読者が思い浮かべる世界は合致しないのではないか」と返答が来て、あまりにもっともなので、吹き出してしまった。
ひとつひとつの名詞は、知っている、あるいは、調べればわかる。
シラズはブドウの皮成分が多い赤ワインで、スパイスを混ぜることも多くあって、自己主張が強いので赤肉、特にステーキと合うということになっていて、オーストラリアが大生産地なので、欧州に較べればワインがバカみたいに高いニュージーランドやオーストラリアでも比較的割安で、普段飲むのによく使われる。
ローストビーフやプロシュートは、たしかカタカナで日本のスーパーマーケットでも売っているはずです。
この編集者の友達が言いたいことは、そういうことではなくて、
例えばローストビーフは日本では高級品で、高い食べ物だが、イギリスやニュージーランドでは、どこにでもあって、安い食べ物で、
最近は中国市場の巨大化で、ずいぶん高くなったとは云っても、やはり日本でいえばロースハムという不思議な名前のハムがあって、あのくらいの値段のものだとおもえばいいような気がする。
プロシュートとローストビーフは、そもそも食べ物の組み合わせとしてはヘンなのがあきらかで、つまり、このふたりは、ベッドのなかで、いけないことに耽ってお腹がすいたので、ありあわせのものをログバーナーと英語では呼ぶ、日本語では何というのだろう?
反射式薪ストーブ?空気の取り入れ口をおおきくとってあって、前面はガラス張りで、でっかい太い煙突が屋根を突き抜けて通っている、最も一般的な暖房器具の前で、オレンジ色にゆらめく炎を見ながら、いけないことの余韻に浸っている。
余韻の深い水のなかから、やや浮き上がってきて、今度は、髪をおろした横顔を炎の輝きに照らされながら、相手のことを知りたがって質問攻めにしている。
普通な普通な、途方もなく平凡な情景を書いてあって、それがなんだか日本語では頭のなかでイメージのつくりようがないではないか、と言われているので、言われてみれば、まことにそうであるとしか言いようがない。
わたしは、わがままである。
むかし、ブログ記事を指して、影でこそこそ悪口を述べるのが好きなひとたちが、よく考えてみると、なんで他人のブログ記事を「批評」なんてしたがるのか、ヘンテコな人達だが、それはともかく、
「こいつは、わがままで、しかも、わがままであることをなんとも思っていない」、ふてえやつだ、と息巻いていて、日本版のKKKの集会のような趣を呈していたが、たしかにわたしはわがままで、
しかも、それをなんとも思っていないので、その上言葉を重ねると、居直っているわけでなくて、つまりは、彼らはわがままであることが許されない世界に育って暮らしてきたが、わたしが住んでいる世界では、わがままなのが当たり前で、世界が自分をどう思っているかを気にしながら生活しているほうが異常なので、
なんでそんな生き方をしなければいけないのか、怪訝な気持になっている。
あるいは、やはりこのブログ記事で「ニュージーランドではひところに較べるとホンダやトヨタが減ってフォルクスワーゲンがぐっと増えた」と書いたら、他の要件のときに検索していたらネット上になんと自分の記事に対する揶揄が載っていて、
「調べたらニュージーランドでのフォルクスワーゲンの市場占有率は僅か5%で、トヨタはいまでもトップの占有率で問題にならないから、このひとはウソツキである」と書いてある。
ニュージーランドでは、最近まで、フォルクスワーゲンはディーラーシップすら存在しなかったので、おもしろがって、1990年に父親がイギリスからゴルフをニュージーランドに送ったころは、街角に立っていてフォルクスワーゲンを見かけることは皆無だった。
交叉点に立っていると、ドアが一枚だけ青色の、オンボロでヨタヨタしている黄色のカローラがヘロヘロヘロとやってきて赤信号で止まったりしていた頃です。
ホンダのシビックやトヨタのカローラは、ネルソンだかどこかだかに工場があって、いっぱいつくったので、その頃は、70年代につくられたばーちゃんやじーちゃんのカローラやシビックが道路を埋めていた。
残りはなにしろ「ミニの墓場」と言われたくらいで、世界中から集まってきた廃車寸前のミニの、しかもミニ・クーパーなんて高級なモデルではなくて、クラブマンが多かった。
ところが21世紀になって、ロード・オブ・ザ・リングでニュージーランドがポリネシアの、そのまた向こうにある英語国として「発見」されると、世界中のオカネがどっとニュージーランドに向かって流れてきて、思わず知らず、労働時間は先進国中最短のまま、たいした努力もなしにオカネモチになってしまったので、ビッカビカな新車のフォルクスワーゲンが高級住宅地を、マセラティやポルシェ、レンジローバーと一緒に走りまわるようになって、
「フォルクスワーゲン、増えたなあ」というのがパブでのお決まりの話題になっていた。
フォルクスワーゲンがベラボーに増えた、というのは、だから、新移民でなければ、普通の感想で、それを統計の数字を持ち出して、「嘘だ」というのは、こちらから見ると、たいへん日本人ぽい感じがした。
と、そう考えて「ありっ?」と思うのは、この「日本人ぽい」感じはなんだろう、ということで、考えてみると、なにからなにまで、すべて「世間」の方角から見て、自分は世間から見ると、どう見えるか、自分が早稲田大学の法学部卒業で、ブリジストン営業部の主任で年収400万円だが、これは世間では何位にランキングされる人生なのだろうか。
世間のほうにモノサシがあって、それで自分をいろいろに計測するイメージが「日本人」になっているので、ものを見る見方が、いいやわるいということではなくて、わがまま族とは、まるで正反対になっている。
みこすりはん、というわざと平仮名で書くしかないような、お下品な言葉があるが、そういう世間の尺度が観点の基礎をなす社会であると、多分、ちゃんと統計が存在して、127.8回というような数字を見て、青ざめている若い夫もいるのではなかろーか。
は、冗談だが、
余計なことを書くと、インドの男の人にも日本人とおなじところがあるらしくて、大きさの平均値とX(エックス)こすりはんの記事が実際に存在する。
英語社会などは、もともとは極端で、ランギオラニュースという人口が周辺も含めて2万人もいな地域の新聞があって、朝、起きると、エミューが安くなったが、ダメだぞ、あれは、加工工場が南島にはないから投資にならない、とか、ダチョウの卵が儲かると聞いて、一個1万ドルの卵を10個仕入れて、成長にまで育ててから、肉も羽根も、むだになるところがなにもないので有名な家畜であるダチョウも、しかし、エミューとおなじで加工工場がニュージーランドに存在しないので身上すって参ったぜ、というような記事を読んで、それで世界についての学習は終わり、という人がたくさんいた。
つまり、自分を中心として同心円上に広がっているのが世界で、例えば日本などは、どっか遙か彼方に転がっているやたらにカネモウケがうまい道徳心のかけらもないひとびとという杜撰な理解で、あとは夏目雅子の西遊記や日曜日の朝のセーラームーンで、
女の人(←三蔵法師が女のひとで尼さんであったと誤解している人がいまだにたくさんいるのは、多分、あのドラマのせいであるとおもわれる)がインドまで歩いていったり、かっこいいアニメもつくるんだよね、ぐらいで、自分はトヨタで通勤しているのに、なんだか未開な国だとおもいこんでいる認識がくもって矛盾している人なども過去にはざらにいた。
ほおーら、人種差別じゃん!
と小躍りして喜んではいけないので、別に人種とは無関係で、インターネットでIT情報革命が起きるまでは
「ニュージーランドって、いったいどこにある国なの?」
くらいは日常茶飯事で、バチェラーディグリーがあるくらいでは「何語を話しているの?」
の質問も普通で、
「ニュージーランド人って、足は何本あるの?」と聞かれたことがないのは不思議であるとおもう。
英語で育った人間って、そういうものなんですよ。
日本の人や中国の人に較べると、興味の対象がぶっくらこいちまうくらい狭くて、自分自身への関心と興味が80%くらいをなしていて、愛する人やなんかが19%、残りの1%で自分の国の社会や世界の情勢や外銀河の動向をまかなっている。
除夜の鐘 俺のことならほっといて
という中村伸郎の有名な俳句は、そのまんま西洋文明で育った人間の気持ちを代弁している。
日本語でさんざんあーでもないこーでもないと日本語で出来た友達と話してきたが、いままさに焦眉の急の問題に「どうやって自由社会にたどりつくか」があるが、
わがままじゃないと、ダメなんじゃない?
と2,3年前から言い出したのは要するにそういうことです。
ものを見て考えるときの視線のベクトルが自分から世界へ向かっていることが自由主義社会の大前提で、このベクトルが逆向きになっていて世界から自分に向かっていると、つまりは全体の意志が自分の意志をのっとってしまう天然全体主義になってしまう。
世界中を見渡して、中国の人と日本の人が代表的なこの全体発個人着ベクトルの犠牲者だが、中国の人は元来「公(おおやけ)」の範囲が著しく狭いので知られていて、だいたい二親等の親族くらいまでしか及ばない、という。
この範囲ではお互いを完全に信頼することができて、言葉を違えず、完全に善意だけで事象が処理されてゆく。
しかも公(おおやけ)の外側は、no rubbish文化で、ついこのあいだまでは、博愛とか公正とか、くだらないこと言ってんじゃねえよ、それでどうやって生き延びていくんだよ文化だったので、家から外に出れば戦場で、悪くいえば嘘でも割り込みでもなんでもあり、ルールなんて言ってたら飯が食えんわ、勝てばいいんじゃ、で、それが中国の強靱な個人主義の元をなしている。
「男は家から一歩外に出れば7人の敵がいる」
という黒澤明の「七人の侍」の盗賊の科白みたいな俗諺が日本の本を読むとときどき出てくるが、えっ、たった7人なのか羨ましい、というイギリス人の感想は別にして、封建的な「家」の概念があったころから、日本では「公」もまた存在して、闘争にもちゃんとルールがあったのが窺われるが、
日本人の文明では「絶対」をもたなかったことの結果として世間が「絶対」の代替として機能することになってしまった。
日本の人が、データと統計を偏愛して、「ものごとを客観視しようと努力している」と自分では感じている努力が多くの場合、世間がどう評価しようとしているか見極めている痛々しい努力と同義なのは、そういうことと連関があるのでしょう。
十年以上日本語と付き合って得た結論は、「こんなに言語が異なっていては理解しあうのは不可能」だったが、考えてみればおなじ英語でも、たいして理解しあっているわけではないので、
まあ、そんなものだろう、と考えるしかないが、
世界認識のベクトルだけは、えっこらせと180度向きを変えてやらないと、日本語人は破滅に向かって歩いてゆくだけだ、とおもいます。